憾言。

創作ノオトをつくる以外に、その詳細を書いているのは、このスミレノオトくらいなもんだけど、それら二つのノオトに書いていてさえ、整理することがままならない、このたびの作品「牧野博士の不思議な採集」は、どこか作者の想像を超えた場所へ行き着こうとしている憾(うら)みがあります。
何ゆえ、そのことを“憾(うら)み”がましく書くかというと、この作品を読んだ、ある作家のかたから、

 
 第三章の「ハタハタハタ」「あれから、幾年経つのだろう…」「サリサリ、…サリサリ」辺りに、
 折口信夫の「死者の書」と意識的に重ねようとしている感が伝わってきます。全体的な小生の印象
 では、構成などがややひねり過ぎで、話の展開を分かりにくくしているのではとの感を覚えます。


と折口信夫の『死者の書』を引き合いに出されるなど、まったく想定外な感想をもらったことによります。
ファンタジーはよく、わからないとも面白くないともいわれます。
もちろん、そのことはそれを読むひとにもよるのでしょうが、こころに向かって語ろうとする、この文学の一形態を「わからない」と思ったり、「面白くない」と思ったりするのは、それを読む側に、そうしたこころの準備がないからなのかもしれません。
そんなファンタジーには、地上現象の上では証明出来ない何かがあって、その現象の論理と道筋を超える何かがあるのです。
この“何か”とは、個々の読者が、そのときにわかる啓示的なことであり、よって、これを「わからない」と思ったり、「面白くない」と思ったりする読者の上には、この“啓示的なこと”が、たんに起らなかっただけなのでしょう。
そんな“憾(うら)み”がある作品「牧野博士の〜」は、冒頭にもあるように“二つのノオトに書いていてさえ、整理することがままならない”それであり、このことは、作者の自覚する、たとえば、物語に流れている現在、過去、未来、の時間を隔てる垣根、つまり、「行空き」を設けないことに起因しているのかもしれません。
とはいえ、この“「行空き」を設けないこと”は、作者の意図することであり、もっといえば、アインシュタインの『相対性理論』のうち、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」を引き合いに出して説明することの出来るものなのです。
つまり、「特殊相対性理論」=「ミンコフスキー空間」における「四次元」にそのことを照らせば、この次元では、時間も空間も一つに存在するものであって、過去に存在したものも、未来に存在するものも、この「四次元」世界の内部に存在して然るべきものであるということを、“「行空き」を設けないこと”のうちにあらわしたかったというわけです。
とそんなことを書いて、いったい、どれだけの読者がそのことを理解してくれるのだろうかと、つい、“憾(うら)み”ごとの一つもいいたくなってしまいます。。。
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*画像、お馴染みのショット。
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by viola-mania | 2009-03-29 10:38 | 文学


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