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行方。

ご家族のつき添いで病院へ行った年少のともだちが、そこの看護士にコドモ扱いされたという話を訊き、
「だって、きみ、コドモじゃん!!」
とにべもなくいい放ったことが、帰りの電車で席を譲った母子を前に、ふと、思い出されました。
満員電車のなか、傍若無人に振る舞うコドモは、ある意味、暴君であり、そのコドモの行動に、オトナことばで応対する母親とのコミュニケーションは、でも、不思議とコドモのこころを掴んでいるようでした。
とはいえ、コドモがわかるのは、母親の話すオトナことばではなく、コドモに対する母親のこころなのです。
なぜなら、「童心」は愛と一体のものであって、愛なくして「童心」はありえないわけだし、母親の顔がコドモの手によって、どんなに酷くゆがめられようとも、その愛によって自己をなくした母親が、それをとがめることなどありえないからです。
ところで、我が家のラグの上に落ちていた糸屑を仔細らしくつまみあげ、それが自らの関心の埒外のものであったと知るや、ふたたび、ラグの上に放ったともだちの行動は、でも、それを眺めるオイラの目には児戯としか映らなかったけれど(ふつう、ごみと看做して始末するよな!!)、ともだちにしてみれば、自らの法則にかなった生活行動なのです。
そんなわけで、彼ら、コドモたちが、どのような生活行動を選ぶにしても、そのことを欲するときに欲することができれば、それでいいのでしょう。
だから、やめたいと思ったときには、いつでもその行動の枠から「もうやーめたっ」といって立ち去れる自由が、彼らには補償されているのです。
そして、コドモたちは、いかに面白い遊びを得ようかと、ミツバチのように花から花へと漂泊し執着することがありません。


 わが肌は汗のみ着つつうすびかれ愛すべし天衣無縫の行き方   剛
行方。_d0004250_74235.jpg

by viola-mania | 2008-11-30 07:05 | 少年


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