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家畜。

 豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている


このうたにはじめて出逢ったのは、まだ、1月15日を「成人の日」と制定していた頃の、その日のことと記憶しているのですが、手許にあるマーブル模様の手帖には、このうたが掲載されていた新聞の切り抜きが、1999年6月3日と日付けが書かれたあとの数頁を使って、他の切り抜きとともに糊付けされています。
でも、確かに、「成人の日」であったはず、、、
とはいえ、この手帖を使い始めたのは、その年の三月からとこれも日付けが書かれているし、翌年の「成人の日」には、違う事柄が記されているので、そこから推察しても、濱田康敬の「豚」のうたに、はじめて出逢った日が「成人の日」であったとする記憶は、憶測でしかなかったということが証明されます。
それにしても、この「豚」のうたに詠まれた、「成人式」というオトナへの通過儀礼が、忌まわしく感じられるのは、或いは、「豚」ということばをそのタイトルに据えた、P.P.パゾリーニの映画、『豚小屋』(1969年)の印象が、かのうたとオーバーラップするからなのでしょうか、、、


 社会が、社会全体が、子供たちを喰い殺しています。不従順な子供も、そして従順で
 も不従順でもない子供たちも。子供たちは従順たるべし、これしかないってわけです
 よ!


主人公の青年、ユリアンの奇行は、彼が大切に飼っている「豚」たちへの愛欲の行為であり、その愛の深さゆえ、彼は、「ボタン一個残さず」、「豚」たちに喰い殺されてしまったのです。
“社会が、社会全体が、子供たちを喰い殺しています”という、パゾリーニのメッセージは、まったく希望のないヴィジョンが、確たる現実となることを、この作品を通して告知しているかのようです。
ところで、二十歳の青年、濱田に、「豚」のうたを詠ましめた感情は、この、「豚」というものが「おぞましい」、「穢ならしい」、「性悪な」ものであるとする、彼の心緒であり、また、“オトナ”社会に対する畏(おそ)れであったのかも知れません。
とはいえ、「文明人」の良心の要請を満たすには、「豚」という、かくも安価にその血肉を提供してくれる輩(やから)の存在や、彼らが、その侮蔑の対象となってくれていることが、絶対不可欠であるという、悲しいパラドクスもあるのです。
最近、二十歳に満たないコドモたちの自死の報せをよく耳にします。
家畜。_d0004250_8112817.jpg

by viola-mania | 2006-11-05 08:12


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