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苦味酒。

 私の悩みとさすらいの思い出は、苦艾(にがよもぎ)と苦味だけ
                                              哀歌3−19

拝復
あのひとの死を知ったのは、貴女から、文(ふみ)が届いた前日の晩のことでした。
貴女もご存知の、あの顔中、髭だらけの熊のような男、作男であることを理由に、ろくに湯も使ったことのない、獣じみた彼奴。
その晩は、作男にあるまじき、たいそう酒を呑んでいて、死んだあのひとへの恋情を酔いに任せて、主人であるわたしに、縷々語っていました。
わたしの気持ちなど、まったく意に解そうともせずに。……
ところで、貴女の計略にのって、捨小舟とともに、桜のふしどに沈んだあのひとの最期たるや、絵巻物を観るように、さぞや美しかったものと察します。
いえ、誤解なきよう申し上げておきますならば、確かにあのひとが美しいことは、わたしも、そして、貴女も認めていることゆえ、異論はございません。
しかし、そのこととは別に、あのひととの婚姻は、家同士のそれにほかならず、わたしの意志のはいり込む隙など、毛筋ほどもなかったのです。
たとえあのひとが、男性を怖れていようとも、わたしとあのひとの婚姻は、成立していたことでしょう。
貴女が手を下さない限りにおいては、……
ところで、貴女からの朗報を届けてくれたかの作男は、死にました。
自らがつくった酒による中毒で、川へ落ち、翌朝、斃(たお)れていたところを発見されました。
苦艾(アブサン)に含まれる有毒成分によって、中枢神経を犯されてしまったのでしょう、わたしは、作男が、その酒を常用していたことも知っていましたし、その酒に、阿片のような幻覚作用があることも知っていて、或いは、わたし自身が、つかの間の享楽に酔いたいがために、作男にそれを赦していたのかも知れません。
その苦い味を愉しむために。

                                                   畢
苦味酒。_d0004250_17391145.jpg

by viola-mania | 2006-06-16 17:39


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