開幕。

近所に住んでいる年少のともだちを、門前で見送ると、
「良いお年を!!」
という柝(き)の音のような清々しい声が返ってきました。
さて、「K1 ダイナマイト」をみながら年越しそばをいただき、食べ終えた食器を洗ったあとで冷蔵庫をあけると、そばにのせようと用意しておいた「かき揚げ」がはいっていて、スゴいショック!!
何がショックかって、その「かき揚げ」をそばにのせていただくことで“年越しそば”を食べるという慣習が遂行されるはずだったのに、、、
「やきがまわったなあ」
とその薄くなった「年越し」に対する意識に、一抹の悲しさを覚えるのでした。
とはいえ、新しい年の開幕に際し、これといったことは何もしていなくて、だから、ことしのそれは、たんに日付けが変わり、かつ曜日が変わるくらいな気構えでしかありませんでした。
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そんななかでの、「薔薇窗カルタ取り大会」は、だから、耽美文藝誌『薔薇窗』が行った年を総観しつつ、来たる21号からの方向性を検討するべく良い機会となりました。


 わが肌は汗のみ着つつうすびかれ愛すべし天衣無縫の行き方   剛


正しくは、「生き方」であるのでしょうが、この場合のそれは、「行方」とするのが正しいようです。
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「1号が創刊されたのは、いくつのときですか?」
「いまのきみとおないどしくらいかな」
「じゃあ、これが僕だとして、、、」
「これが、僕ということになるね」
とともだちが示した『薔薇窗』1号を見やりつつ、その手のなかには、『薔薇窗』18号。
その13年という歳月のどこで、こどもとおとながすれ違ったのか、悲しいことにわからない、、、
ことしも、開幕のベルは華やかに鳴ります。
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ほんねんも、「ヴィオラ☆マニア」ならびに、「スミレノオト」をよろしくお願いします。

*画像、上、第一期(1〜4号)、中、第二期(5〜11号)、下、第三期(12〜16号)
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# by viola-mania | 2009-01-01 10:59 | 雑感

蟲師。

翌日が休みでないかぎり、平日の深夜に起きていることはあまりないけれど、来週から月曜日の深夜だけは、起きていなければならないといった必要性を感じた、きのうの深夜、、、
そんなわけで、三年前の秋からその翌年の春まで、地上波にて放映された『蟲師』を、ようやくいまになって衛星波でみているオイラのアンテナって、ある意味、この物語の舞台である、「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった、電気のなかった頃のそれであり、よって、届くこともないそれが像を結んでいるのは、だから、蟲の報せによるものなのでしょう。
また、画面に映る風景も、日本の原風景を思わせるようなノスタルジックなものとなっていて、このあたりの事情が、アナログ仕様なオイラには、何とも心地よいのです。
それにしても、かたわらに置いた湯のみから立つ、湯気の音さえ聞こえてきそうな深夜。
「柔らかな角」とキャプションされた画面の向こう側は雪景色。
どうりで静かなわけです。
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さて、『蟲師 第三話 柔らかな角』のストーリーは、 


 雪深い村の村長白沢(しらさわ)の依頼で、村人の片耳が聞こえなくなるという奇病
 の調査に訪れたギンコ。ギンコの治療により村人達は救われるが、村長の孫の真火
 (まほ)は両耳が聞こえなくなり額に角が生えるという、さらに特異な病に冒されて
 いた。 そして、真火の母も同じ病で命を落としていた、、、


というもの。
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ふと、若山牧水の


 耳は耳目は目からだがばらばらに離れて虫をきいてをるものか


こんなうたのなかに、このストーリーのすべてが集約されているのではないかと思ったのは、きのうの深夜のことでした。
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*画像、上、ギンコ、中、蟲の名、下、真火。
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# by viola-mania | 2008-12-28 00:22 | 雑感

沈黙。

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く


といった三行の詩聯で結ばれたこの詩、「ほそくてながい指のひと」を読んだとき、その作者である笹原玉子さんが敬愛しているという、ユルスナールの<最初に発表した小説>、『アレクシス あるいは空しい戦いについて』に、


 音楽は魂の宇宙だと人は言う。女友(とも)よ、それもありえないことで
 はない。しかしそれはただ、魂と肉体が不可分であること、鍵盤が音を
 含んでいるように、一方が他方を含んでいることを証すだけだ。和音の
 あとの沈黙は、普通の沈黙とはまったく質を異にする。それは注意深い
 沈黙だ。生きた沈黙だ。……


といった一節があったことを思い出し、同性愛の傾向を持つ主人公を、ユルスナール自身に重ねた、この自伝的な処女作(<最初に発表した小説>)の終わり近くに引いたアンダーラインの箇所を、いま一度読み返してみたくなりました。
笹原さんの作中、「虚無を許されてゐるたつたひとりのひと」とは、そのタイトルにある「ほそくてながい指」を持つひとであり、そのひとの性別を、貴方=男性であると類推してみたとき、そこに、あらわれるのは、やはり、「イエス・キリスト」をおいて、ほかに考えられないのです。
だから、“音楽を魂の宇宙”とするユルスナールのたとえは、「沈黙」の名を借りて、“そこから遠く及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く”、イエスの声とすることもできるでしょう。
このことが、ゲッセマネの園でのイエスの祈り、或いは、それと同質の、“注意深い沈黙”であり、“生きた沈黙”であることのことわけを証すものだとしたら、この詩、「ほそくてながい指のひと」は、そのひとに対するオマージュであるのかもしれませんね。


 そのかみのほそくてながい指のひとよ。貴方
 がさしのべた手を握りかへすと、わたしたち
 はいつも火傷をくりかへす。その、あまりの
 つめたさに

    †

 火傷を負はせるたびごとに、それでも貴方は
 歓喜の声をあげてゐたのではなかつたか。酷
 薄といふ名の
 もの言はぬ瞳の奥でひとしづくつたはるもの
 がなかつたか。いつくしみといふ名の

    †

 まづしい僧院の中庭で木枯を肩に積みあげな
 がら、わたしたちはさしだされる手を待つて
 ゐた

    †

 ほそくてながい指のひとが盲目の小鳥を放す。
 掌(てのひら)の焼土をあがなふかのやうに

  目を閉ぢるといふことは
          受け入れるといふこと

 僧院の中庭はそのために充分な広さと孤独を
 所有してゐた

    †

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く

*笹原玉子「この焼跡の、ユメの、県(あがた)」、ミッドナイト・プレス刊
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# by viola-mania | 2008-12-21 00:32 | 文学

並列。

鈴木創士訳、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』を、こんどの耽美文藝誌『薔薇窗』の誌上で、堀口大学の訳したそれと読み比べてみるべく、目を通していたら、


 少年—博士のように博学で勿忘草(わすれなぐさ)のようにみずみずしい、


という喩えがあり、その箇所を堀口訳にあたってみると、


 少年博士のように博学で、瑠璃草のように新鮮で、


となっていました。
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当然、堀口訳でしか読んだことがなかった、このジュネの創世記(ジュネーズ)に、鈴木の「少年」と「博士」を並列する「—」は、そのことに同感するこちらに、少なからず衝撃を与えました。
この喩えは、三島のユッキーが、稲垣足穂の人物像を想像するそれとよく似ていて、たとえば、ユッキーは、「稲垣さんを、いまだに、白い、洗濯屋から返ってきたてのカラーをした、小学校の上級生だと思いたいんですよね、どうしても。そういう少年がどこかにいて、とんでもないものを書いているというふうに思いたいんです。つまり美少年がとんでもない哲学体験を持っているという夢をもっているわけ」と、澁澤龍彦との対談のなかで語っていて、“「少年」と「博士」を並列する「—」”のニュアンスが、足穂の人物像を媒介として感じられました。
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とはいえ、それは、あくまで想像の産物に過ぎず、だから、この「少年」が持つ特質のみを抽出し、それを注ぐ器を現実に求めるとしたら、やはり、その対象は、社会の庇護下に置かれている(或いは、放置されている)、大学生ということになるのでしょう。
とりわけ、「院生」と呼ばれる彼等に、、、
そんなことを考えていた折り、この“とんでもない哲学体験を持っている”とおぼしき「院生」より、メエルが届きました。
『薔薇窗』の購読者であるという「少年—博士」は、19世紀末のドイツの詩人、シュテファン・ゲオルゲについて研究しているとのことでした。
「少年」と「博士」の邂逅を、いつか、『薔薇窗』誌上で、読んでみたいものです。
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*画像、上、鈴木創士訳「花のノートルダム」(2008)、中、少年ジュネ、下、堀口大学訳「花のノートルダム」(1953)。
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# by viola-mania | 2008-12-14 00:22 | 文学

艱難。

弟の名は、巳浩(みひろ)といい、どこか香りのあるその名には、美術評論家という彼の生業(なりわい)を、花文字で飾るような情緒があった。
巳浩とともに、白い波が静かに漣(さざなみ)を返している、その三方を山に囲まれた湖を前にしたとき、彼の首に掛けた白いマフラーが、折りからの突風にあおられ、湖面に立つ漣にまぎれた。
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「やっぱり、僕の思ったとおり、きみは来ていた。僕は、画伯の作品を観に来たのではなく、きみに逢いに来たのだ、、、さあ、いまから、うぐいすの声を聞きにおもてへ出よう」
と若い歌詠みに腕を取られて、どこで啼いているのかもわからぬ、うぐいすの啼き音(ね)を聞きに、そのこころごと連れ去られたという、恋の逃避行について、巳浩は、嬉々として語った。
そんな弟のアバンチュールを、私は、少しの嫉妬と少しの嘲笑とをもって聞いていた。
「アニキも彼のことが好きなの?」
と巳浩から訊かれたとき、
「ああ、あの流麗な啼き音(ね)がな」
と曖昧に応えた私は、やはり、その枯れ草色したうぐいすの艱難(かんなん)のほうを、より愛していたのだった。
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*****

きのうは、こんな夢をみました。。。
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# by viola-mania | 2008-12-07 00:11 | 文学

行方。

ご家族のつき添いで病院へ行った年少のともだちが、そこの看護士にコドモ扱いされたという話を訊き、
「だって、きみ、コドモじゃん!!」
とにべもなくいい放ったことが、帰りの電車で席を譲った母子を前に、ふと、思い出されました。
満員電車のなか、傍若無人に振る舞うコドモは、ある意味、暴君であり、そのコドモの行動に、オトナことばで応対する母親とのコミュニケーションは、でも、不思議とコドモのこころを掴んでいるようでした。
とはいえ、コドモがわかるのは、母親の話すオトナことばではなく、コドモに対する母親のこころなのです。
なぜなら、「童心」は愛と一体のものであって、愛なくして「童心」はありえないわけだし、母親の顔がコドモの手によって、どんなに酷くゆがめられようとも、その愛によって自己をなくした母親が、それをとがめることなどありえないからです。
ところで、我が家のラグの上に落ちていた糸屑を仔細らしくつまみあげ、それが自らの関心の埒外のものであったと知るや、ふたたび、ラグの上に放ったともだちの行動は、でも、それを眺めるオイラの目には児戯としか映らなかったけれど(ふつう、ごみと看做して始末するよな!!)、ともだちにしてみれば、自らの法則にかなった生活行動なのです。
そんなわけで、彼ら、コドモたちが、どのような生活行動を選ぶにしても、そのことを欲するときに欲することができれば、それでいいのでしょう。
だから、やめたいと思ったときには、いつでもその行動の枠から「もうやーめたっ」といって立ち去れる自由が、彼らには補償されているのです。
そして、コドモたちは、いかに面白い遊びを得ようかと、ミツバチのように花から花へと漂泊し執着することがありません。


 わが肌は汗のみ着つつうすびかれ愛すべし天衣無縫の行き方   剛
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# by viola-mania | 2008-11-30 07:05 | 少年

童心。

リン、リン、リン、、、
と鳴る黒電話の音に、はた、と起きると、電話に出てから切るまでの時間が、現実の名のもとに有限であるにもかかわらず、無限のように感じられたのは、その時間が非現実な空間を得ていたからにほかなりません。
或いは、その非現実な空間へと繋がる「扉」を潜った我々は、「永遠」という名の時間軸の上を逍遥(しょうよう)していたのでしょう。
だから、
「ちょっと、トイレ、、、」
といって、現実の時間へ戻り、ふたたび、非現実な空間へと繋がる「扉」を潜ろうとしたところで、それを果たせなかったのは、一にして、全なるものが「時」の習性(ならい)であるからなのです。
それにしても、部屋住みの年少のともだちのおうちへ電話をかけ直し、彼のお母さまが出られたときほど、この有限の現実を思い知らされたことはなかったね。
だって、時計を見たら、深夜の2時。
我ながら、オトナげないことをしてしまった、、、とこれを反省。
それにしても、有限の現実から、無限の「扉」を潜ったとき、自己矛盾としてまとわりついていた、拘泥や執着から解き放たれたのには驚きました。
「永遠」という名の時間軸の上にあったのは、有限の現実に住む我々が、希求してやまない、コドモの世界だったのです。


 おお永遠の光よ
 おのれの中にのみましまし
 おのれのみ おのれを知り
 そして おのれに知られ
 おのれを知りながら愛し
 また ほほえみ給う者よ

                        ダンテ『神曲』より


童心とは、この神の愛のなかにあるものであり、愛のなかにあることを疑わないこころなのです。
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*画像、甲 秀樹・竹邑 類「甲類展 -少年趣味・少女趣味」(11月28日〜12月7日 ポスターハリスギャラリー)DMより。
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# by viola-mania | 2008-11-23 00:55 | 少年

海豚。

伊豆半島の最南端にある大根島展望台からヒリゾ海岸を臨もうと、その小さなパーキング・エリアに愛車を止め、このどこかイルカを思わす流線形のボディをあらためて眺めたとき、その前日、下田海中水族館で観た「イルカショー」に少なからず感化されている、我が視官を嬉しく思いました。
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「エンジンのおおきさによって、そのクルマの持つ特性を最大限に活用出来ることと、イルカの脳化指数って、なんだか似てるよね」
と倒した助手席のシートの上で、目を閉じている父に、訊くとはなしに訊いてみると、
「脳化指数って、なんだ!?」
との返答。
「ああ、体重に占める脳の割合のことなんだけど、きのう観たイルカはね、ヒトについで脳化指数が高いことが知られてるんだよ」
それに対する父の返答が、静かな寝息となって聞こえてきたとき、ここから臨む草の海が、その寝息によって凪(な)いだ気がして、おもてへ出たくなりました。
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「イルカがヒトに匹敵する知性を持てば、、、」
などと、草の海が南風にさざめく展望台までの階段を昇りつつ、その意識は、ヒトの知性とイルカの能力の響応を思い返していました。
「まるで、<イルカに乗った少年>ね!!」
とそのショーを観る客のひとりがいったとき、ウエット・スーツを着た少年とイルカとの信頼関係に、胸が熱くなりました。
ヒトはイルカの能力にたのみ、イルカはヒトの知性にまつ、、、
といったこの“響応”は、ショーの行われている海上でスパークし、その深い草色をした火花、否、水しぶきが、少年とイルカの上できらめくごとに起こる歓声をもって、その成果を証明しています。
「もしも、乗る背中がなかったら、、、」
そんな不安が、展望台からの階段を下りつつ、一瞬、こころに兆したけれど、イルカを思わす流線形のボディを持った愛車は、小さなパーキング・エリアで、両親を載せたまま、そこで“まつ”ていてくれました。
とさ。。。
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*画像、旅のアルバム。
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# by viola-mania | 2008-11-16 02:20 | 雑感

彼地。

 そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして、氷雪の上に飛躍し、大循環
 の風を従えて、北に旅する事もあれば、赤い花林の下を行く蟻と語ることも出来る。
 罪やかなしみでさえ、そこでは聖く、きれいに輝いている。
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と、ともだちに、宮沢賢治の文章を電話口で朗読したあと、
「<罪やかなしみでさえ、そこでは聖く、きれいに輝いている>、そんな場所が、この世に存在することを赦していた、賢治のおおきさに比べたら、僕の胸にひっかかっていることなんて、とてもちっぽけなことだと思う」
とその“胸にひっかかっていること”の詳細を吐露してみた。
「たとえば、愛するひとのために死ねる感情って、自分の命をそのひとに托すことだと思うんだよね」
というともだちの死生観に、
「うん、ふたりでひとりなわけだしね」
と何の疑いもなく応えた自分に、ふと、“罪やかなしみ”が“きれいに輝”く場所のあることが、救いのように思われました。
「死」を迎える状況は、さまざまにあるわけだけど、でも、それ自体は人間中心の生命観であって、「命」そのものの理解ではないよね。
だから、ともだちに、“罪やかなしみ”が“きれいに輝”く場所で結ばれた友情譚について触れてみた。
「でも、この場所は、きみ以外の誰にも教えてないし、教えたくないんだよね。だって、きみは大切なともだちだから」
と、その場所の在処をそっと教えた。。。
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# by viola-mania | 2008-11-09 07:36 | 雑感

馬肥。

天高く馬肥ゆる秋ですね。。。
そんなわけで、きょうは、駅までの山道を40分かけて歩いてみることに、、、
とはいえ、昼飯前。
“馬肥ゆる”どころか、消耗しそうな勢いですが、その道すがら里山の植物たちを、ケータイ・カメラに収めつつ歩いていたら、深まりゆく秋の季に、こころだけは、満腹といったところ。
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そんなわけで、いつものストアへ行く前に、贔屓の古書肆へ立ち寄ってみることに、、、
半月ぶりの店内のワゴンには、これといった出物もなく、それでも、その装釘のみに惹かれた『江戸次第』(昭和6年刊)というすべて漢文による、ちんぷん漢文? な書物を300円で拾い、狭い店内の棚を一巡。
さて、お会計といったところで、ちょっとした珍書? を発見。
んでもって、それら二冊の書物を番台へ持っていったところで、きょうも見えないご主人の代わりに店番をされていた奥さんと、これも前回に引き続き地元談義に花を咲かせてしまいました。
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かれこれ小一時間ばかりを古書肆で費やし、いよいよ、減ってきた腹を擦りながらストアへ、、、
新米の出荷に気推された? かたちとなったオコメを、いつもの価格より500円安く買うことができ、ふと、小市民的な喜びが込み上げるも、これを土鍋で炊けば、そのおいしさは、新米に劣るものではない!! と、負け惜しんでみたりなんだり。
それにしても、ごはんがおいしい季節ですね。。。
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*画像、里山の秋を歩く。
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# by viola-mania | 2008-11-02 00:26 | 雑感