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歌殺。

 泰山木は私の最初の植物体験の一つであった。

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とは、奇しくもこの植物が、雄大瑰麗な花をひらきかつ鋭い芳香を漂わせる一時期に逝った、歌人、塚本邦雄のことばですが、この泰山木(たいさんぼく)が花ひらく午前中に我が家を訪ねて来た近所のともだちの顔もまた、ひらいたばかりの花のように瑞々しいものでした。
さて、ともだちから手渡された白い封筒のなかには、『現代短歌研究』の誌名を持つそれが三冊はいっていて、その最新号の表紙に刷られたもくじを見ると、ともだちが、この研究誌の主宰を務めていた、評論家、菱川善夫に捧げた批評文のタイトルが、巻頭に据えられていました。

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 「カリギュラの鏡——歌はだれを殺すのか」   小松 剛


カリギュラとは、アルベル・カミュの戯曲に登場する若き暴君の名ですが、そのカミュの戯曲「カリギュラ」の科白を、文頭と文末に置いた小松さんの文は、その初校を読み聞かせてもらったときの印象そのままに劇的であり、そのことは、「選別的な形でしか<殺し>はやってこない」という菱川のことばどおり、特別な状況、あるいは、状態のなかでこの文が書かれたことを示唆しています。
その状況とは、前衛短歌の開幕期からその評論活動を展開してきた菱川の死であり、状態とは、「歌人には決してなりたくない、歌人とはもう関わりたくない。歌人は死ぬほどつまらない」という小松さんの歌人に対する諦念とでしょう。


 人は、短歌を一首成すとき、多くのものを喪っていることを知るべきだろう。そしてその末に
 残るものがあるのか、とくと自分に問うべきだろう。一首を成すとき、人は、恐るべき力で短歌化
 され、あらゆるものとともに消え去る。この魔的な力に抗う術はない。ましてや伝統に紛れ込もう
 とする歌人に、なにを見るべきものがあるだろうか。短歌とはただ五七五七七すなわち三十一首の
 音楽にすぎず、くちずさむように歌えばよいと言うような歌人に、なにを聴くべきものが残るとい
 うのだろうか。



と小松さんが嘆くとき、塚本の「<歌人(うたびと)とわが名呼ばれむ>で、<われ歌人(うたびと)ではない」といったことばとともに、このひらいたばかりの泰山木が、その夕刻には淡いセピア色に変色し、とざすことなく花の寿命を終えるその過程を想います。


 泰山木雪白の花ふふみたり青年を棄てて何を愛する   邦雄
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*画像、上、ひらいたばかりの泰山木、中、「現代短歌研究」第八集、下、「カリギュラの鏡——歌はだれを殺すのか」初校。
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by viola-mania | 2009-05-31 01:08 | 文学

美暴。

一年前に完治した虫歯が、ふたたび疼き出しました。
とはいえ断続的な痛みではなく、患部にものが触れると痛む、知覚過敏というやつです。
そんな痛みのさなか目にした、日本画家、松井冬子さんの作品群は、でも、たんに神経への擬似的な刺激である歯痛とは、痛みの意味においてまったく別個のものでした。
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とりわけ、鎌倉時代に描かれた「九相詩絵巻(くそうしえまき)」とともに取り沙汰されることの多い『浄相の持続』(2004年)は、そこに描かれた女性の微笑と一見結びつかない様相を呈した身体が描かれていて、その「自ら腹を切り裂き、赤子のいる子宮をみせびらか」している女性の態度の方に、より痛みを感じるのは、松井さんのなかにある攻撃性がこの作品に露見しているからでしょう。
その態度を、ある美術評論家は、松井さんの伝聞から、「子宮以外の組織の発達において、女性は男性よりも劣るとされた解剖学的報告を引きながら、ならば冷徹な解剖学的身体の誇示を女性として行う表現をとった」と、その攻撃性を表明しています。
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ところで、宗教家、出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)が、「人類愛善会」という人類同朋運動を、大正14年に起こしたとき、その思想的立脚点の一つに、女性原理をいかに自分のなかに取り込んで調和させることが出来るか、、、というものがありました。
出口は、それを「火と水の結婚」といっていますが、そのことは、彼の「変性男子ー変性女子論」を引くまでもなく、ジェンダーとセックス、あるいは、攻撃性と非暴力を考えるための糸口なのです。
その糸口から、松井さんの『浄相の持続』を眺めてみると、自らの内部に異性性を発見・体験し、統合することの可否が、一つの問題として見えてきます。
攻撃性は、つねに異性との性をめぐる緊張関係のなかから出てくるもの。
また、この『浄相の持続』に影響を与えたといわれている、「九相詩絵巻(くそうしえまき)」が描かれた武士政権下の中世は、敗戦後以降の現代と一つの相似形をなしているように思えます。
両者の作品に見える、身体と意識の遠近法は、それが壊れることによって帰結し、そこにアブジェクト(=おぞましきもの)のもう一つのかたちを提示しているのかもしれません。
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*画像、上、「九相詩絵巻(くそうしえまき)」(部分)、中、「浄相の持続」(部分)、下、松井冬子(撮影:中川真人 WEBより転載)。
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by viola-mania | 2009-05-24 00:08 | 美術

薔窗。

どこだったか地方にある生花店で見かけた数種類のバラのなかから、この植物の原種であるオールドローズのポット苗を三つ買ったのが、十年の歳月をかけて? 完成した薔薇窗づくりの発端でした。
誰かが玄関の呼び鈴を鳴らしたとき、その脇にある書斎の窓から顔を覗かせ、その誰かを迎えたいとの抱負があったから、、、
さて、ことしの薔薇垣は、隣の家がなくなり日照に恵まれたという好条件を引いても、ことさらの出来映えです。
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ところで、折口博士が、彼の壮年時代につけていた「零時日記」のなかに、


 庭の雪の上に、沢山の足痕が乱れて居る。犬・猫・鼠・鼬と一々に個性を持つた曲線を作つ
 て、あるいて居る。ひつそりと閉し勝ちな家にも、こんなに小さな獣どもが、集つて来て居るので
 あつた。



という一文があり、これを読むと個人誌『薔薇窗』に参集した、獣たちのことが想い浮びます。
とりわけ、この雑誌がきっかけで、その交流が深まった、歌人、結崎 剛さんも、彼の十九歳の夏には、まだ、ご自身いわく“小さな獣”であったものが、いつしか、ご近所さんとなり、“小さな獣”と一緒に我が家を訪ねてくるようになったのは、不思議な縁(えにし)というよりありません。
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そんな、結崎さんに、きのうは、紙袋いっぱいのオールドローズをもたせてあげました。


 薔薇窗の隅立つたる鼠哉

 *窓から侵入し、いつの間にか棲みついた鼠、一首誉められて薔薇乱す。


とは、結崎さんの返礼の一句とその自註です。
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*画像、上、ことさらの出来映え、中、ともだちと相棒のツー・ショット、下、薔薇窗完成♪
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by viola-mania | 2009-05-17 00:19 | 文学

薔薇。

我が家の玄関脇に植えたオールドローズの、一等はじめにひらいたそれをガラス鉢に浮かべて、その花が香りを漂わせているうちに、着手のライトノベルを書き上げてしまおうとの計画は、でも、ダストボックスのなかで花と散りました。
このたびのイベント(「第八回文学フリマ」)用に、櫂まことさんとつくった『プラトニカ 第二輯』は、完売(イベント持ち分)という喜ばしい結果を残しましたが、でも、そのことはこちらの意に反する? ことであり、画と文が互いにそっぽを向いたかたちとなった「輯」は、だから、失敗なのです。
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そんなわけで、その“失敗”を挽回するべく、イベントの前日を締め切りに進めていたのが、“着手のライトノベル”でした。
こうした誠意? を、つねに作品で見せようとしている我々は、互いが理解者である半面で、敵対者でもあるのです。
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「これ」
と櫂さんから手渡された紙袋には、湿らせた布と二輪のバラがはいっていて、その用途を訊ねたところ、
「店に飾ったらいいかな」
とのことでした。
ダストボックスのなかで花と散ったオールドローズに代わり、いまは、そのバラがへたれながらも強い香りを放っています。
このバラが散る前に、“着手のライトノベル”を仕上げ、その誠意を櫂さんに見せたいところでR
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*画像、上、店に飾ったバラ、中、「プラトニカ」部分、下、持ち帰ったバラ。
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by viola-mania | 2009-05-10 22:20 | 文学

告知。

第八回文学フリマ

日程:2009年 5月 10日(日) 11:00〜16:00
場所:大田区産業プラザPiO
   (京浜急行本線「京急蒲田」下車3分)
   (JR「蒲田」下車13分)

スペースNo.F−46 書肆菫礼荘

↑こちらに出展しています。ぜひ、遊びに来てください。
また、当日は、耽美文藝誌「薔薇窗」バックナンバー、文画集「プラトニカ 第二輯」(新刊)他を販売いたします。
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by viola-mania | 2009-05-10 16:00 | 告知

華燭。

毎年、黄金週間の始まりは、晴れの得意日とされているけれど、女ともだちの晴れの日も、その他聞にもれず五月晴れでした。
さて、挙式は、聖餅の意を持つ女ともだちの名に相応しく、都内某所にあるカトリック教会で行われました。
こちらも“晴れの日”の得意品? となっている赤いネクタイを選ぶと、これも赤い蝋封緘(ろうふうかん)が捺された封筒からインビテーションを開き、同席するもうひとりの女ともだちの、「ウエディングドレスが見たい」との意向につき合うべく家を出たのはいいけれど、果たして、この夜のパーティへの招待状が、親族とともに行われる厳かな挙式へのそれになるのかといった、些細な不安が兆しました。
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とはいえ、教会の扉は誰にでも開かれているもの、、、
そんな杞憂も挙式が済み礼拝堂のそとへ出る頃には、この五月の風にあおられ、どこ吹くそれとばかりに消し飛んでいました。
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それにしても、バージンロードをともに歩く、なべての父親の背中は、どうしてこうも悲しげに見えるのでしょう。
いつか、男ともだちの披露宴の終いで、彼の父親が唄った言祝(ことほ)ぎの歌に聴いた喜びとは真逆のふたりの父親の印象に、送るものと迎えるものとの華燭の明暗を見たような気がしました。
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*画像、上、五月晴れと十字架、中、新婦からもらった小さな灯、下、礼拝堂のそとにも十字架。
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by viola-mania | 2009-05-03 11:40 | 雑感