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蟲師。

翌日が休みでないかぎり、平日の深夜に起きていることはあまりないけれど、来週から月曜日の深夜だけは、起きていなければならないといった必要性を感じた、きのうの深夜、、、
そんなわけで、三年前の秋からその翌年の春まで、地上波にて放映された『蟲師』を、ようやくいまになって衛星波でみているオイラのアンテナって、ある意味、この物語の舞台である、「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった、電気のなかった頃のそれであり、よって、届くこともないそれが像を結んでいるのは、だから、蟲の報せによるものなのでしょう。
また、画面に映る風景も、日本の原風景を思わせるようなノスタルジックなものとなっていて、このあたりの事情が、アナログ仕様なオイラには、何とも心地よいのです。
それにしても、かたわらに置いた湯のみから立つ、湯気の音さえ聞こえてきそうな深夜。
「柔らかな角」とキャプションされた画面の向こう側は雪景色。
どうりで静かなわけです。
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さて、『蟲師 第三話 柔らかな角』のストーリーは、 


 雪深い村の村長白沢(しらさわ)の依頼で、村人の片耳が聞こえなくなるという奇病
 の調査に訪れたギンコ。ギンコの治療により村人達は救われるが、村長の孫の真火
 (まほ)は両耳が聞こえなくなり額に角が生えるという、さらに特異な病に冒されて
 いた。 そして、真火の母も同じ病で命を落としていた、、、


というもの。
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ふと、若山牧水の


 耳は耳目は目からだがばらばらに離れて虫をきいてをるものか


こんなうたのなかに、このストーリーのすべてが集約されているのではないかと思ったのは、きのうの深夜のことでした。
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*画像、上、ギンコ、中、蟲の名、下、真火。
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by viola-mania | 2008-12-28 00:22 | 雑感

沈黙。

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く


といった三行の詩聯で結ばれたこの詩、「ほそくてながい指のひと」を読んだとき、その作者である笹原玉子さんが敬愛しているという、ユルスナールの<最初に発表した小説>、『アレクシス あるいは空しい戦いについて』に、


 音楽は魂の宇宙だと人は言う。女友(とも)よ、それもありえないことで
 はない。しかしそれはただ、魂と肉体が不可分であること、鍵盤が音を
 含んでいるように、一方が他方を含んでいることを証すだけだ。和音の
 あとの沈黙は、普通の沈黙とはまったく質を異にする。それは注意深い
 沈黙だ。生きた沈黙だ。……


といった一節があったことを思い出し、同性愛の傾向を持つ主人公を、ユルスナール自身に重ねた、この自伝的な処女作(<最初に発表した小説>)の終わり近くに引いたアンダーラインの箇所を、いま一度読み返してみたくなりました。
笹原さんの作中、「虚無を許されてゐるたつたひとりのひと」とは、そのタイトルにある「ほそくてながい指」を持つひとであり、そのひとの性別を、貴方=男性であると類推してみたとき、そこに、あらわれるのは、やはり、「イエス・キリスト」をおいて、ほかに考えられないのです。
だから、“音楽を魂の宇宙”とするユルスナールのたとえは、「沈黙」の名を借りて、“そこから遠く及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く”、イエスの声とすることもできるでしょう。
このことが、ゲッセマネの園でのイエスの祈り、或いは、それと同質の、“注意深い沈黙”であり、“生きた沈黙”であることのことわけを証すものだとしたら、この詩、「ほそくてながい指のひと」は、そのひとに対するオマージュであるのかもしれませんね。


 そのかみのほそくてながい指のひとよ。貴方
 がさしのべた手を握りかへすと、わたしたち
 はいつも火傷をくりかへす。その、あまりの
 つめたさに

    †

 火傷を負はせるたびごとに、それでも貴方は
 歓喜の声をあげてゐたのではなかつたか。酷
 薄といふ名の
 もの言はぬ瞳の奥でひとしづくつたはるもの
 がなかつたか。いつくしみといふ名の

    †

 まづしい僧院の中庭で木枯を肩に積みあげな
 がら、わたしたちはさしだされる手を待つて
 ゐた

    †

 ほそくてながい指のひとが盲目の小鳥を放す。
 掌(てのひら)の焼土をあがなふかのやうに

  目を閉ぢるといふことは
          受け入れるといふこと

 僧院の中庭はそのために充分な広さと孤独を
 所有してゐた

    †

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く

*笹原玉子「この焼跡の、ユメの、県(あがた)」、ミッドナイト・プレス刊
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by viola-mania | 2008-12-21 00:32 | 文学

並列。

鈴木創士訳、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』を、こんどの耽美文藝誌『薔薇窗』の誌上で、堀口大学の訳したそれと読み比べてみるべく、目を通していたら、


 少年—博士のように博学で勿忘草(わすれなぐさ)のようにみずみずしい、


という喩えがあり、その箇所を堀口訳にあたってみると、


 少年博士のように博学で、瑠璃草のように新鮮で、


となっていました。
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当然、堀口訳でしか読んだことがなかった、このジュネの創世記(ジュネーズ)に、鈴木の「少年」と「博士」を並列する「—」は、そのことに同感するこちらに、少なからず衝撃を与えました。
この喩えは、三島のユッキーが、稲垣足穂の人物像を想像するそれとよく似ていて、たとえば、ユッキーは、「稲垣さんを、いまだに、白い、洗濯屋から返ってきたてのカラーをした、小学校の上級生だと思いたいんですよね、どうしても。そういう少年がどこかにいて、とんでもないものを書いているというふうに思いたいんです。つまり美少年がとんでもない哲学体験を持っているという夢をもっているわけ」と、澁澤龍彦との対談のなかで語っていて、“「少年」と「博士」を並列する「—」”のニュアンスが、足穂の人物像を媒介として感じられました。
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とはいえ、それは、あくまで想像の産物に過ぎず、だから、この「少年」が持つ特質のみを抽出し、それを注ぐ器を現実に求めるとしたら、やはり、その対象は、社会の庇護下に置かれている(或いは、放置されている)、大学生ということになるのでしょう。
とりわけ、「院生」と呼ばれる彼等に、、、
そんなことを考えていた折り、この“とんでもない哲学体験を持っている”とおぼしき「院生」より、メエルが届きました。
『薔薇窗』の購読者であるという「少年—博士」は、19世紀末のドイツの詩人、シュテファン・ゲオルゲについて研究しているとのことでした。
「少年」と「博士」の邂逅を、いつか、『薔薇窗』誌上で、読んでみたいものです。
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*画像、上、鈴木創士訳「花のノートルダム」(2008)、中、少年ジュネ、下、堀口大学訳「花のノートルダム」(1953)。
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by viola-mania | 2008-12-14 00:22 | 文学

艱難。

弟の名は、巳浩(みひろ)といい、どこか香りのあるその名には、美術評論家という彼の生業(なりわい)を、花文字で飾るような情緒があった。
巳浩とともに、白い波が静かに漣(さざなみ)を返している、その三方を山に囲まれた湖を前にしたとき、彼の首に掛けた白いマフラーが、折りからの突風にあおられ、湖面に立つ漣にまぎれた。
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「やっぱり、僕の思ったとおり、きみは来ていた。僕は、画伯の作品を観に来たのではなく、きみに逢いに来たのだ、、、さあ、いまから、うぐいすの声を聞きにおもてへ出よう」
と若い歌詠みに腕を取られて、どこで啼いているのかもわからぬ、うぐいすの啼き音(ね)を聞きに、そのこころごと連れ去られたという、恋の逃避行について、巳浩は、嬉々として語った。
そんな弟のアバンチュールを、私は、少しの嫉妬と少しの嘲笑とをもって聞いていた。
「アニキも彼のことが好きなの?」
と巳浩から訊かれたとき、
「ああ、あの流麗な啼き音(ね)がな」
と曖昧に応えた私は、やはり、その枯れ草色したうぐいすの艱難(かんなん)のほうを、より愛していたのだった。
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*****

きのうは、こんな夢をみました。。。
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by viola-mania | 2008-12-07 00:11 | 文学