<   2008年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

月病。

最近、「月遊病」ということばを目にすることがあって、ふと、先日の満月を思い浮かべました。
確かに、称讃にあたいする、かたちと光を湛えてはいたけれど、陽光のもととは異なる夢幻的な趣きを、そこに感じることはありませんでした。
ただ「きれいだなあ」と思っただけでした。
そんな、月の光に晒された、己がこころの廃墟を見なくなって、いくとしつき、、、
「月遊病」というのは、この“廃墟”への埋没願望と、それに陥る危惧を感じながらも、悶々とその月日を送ることでしか、病の進行を抑えることが出来ないといった、ある意味、不治のそれ。
病症といっては、理由のわからぬ憂愁が胸のなかにひろがり、やがて、ふさぎの虫が肺腑を食いつくすと、いつしかはいり込み飽和した空虚によって、その胸が破裂してしまうというもの。
その結果、こころのうちに“廃墟”を現出させてしまう病なのです。
とはいえ、“廃墟”からの脱却方法がないわけではありません。
先日の満月を、ただ「きれいだなあ」と眺めたおり、ふと、雲に陰った月のあらわれに、「出たでた月が、、、」とつぶやかざるを得なかった心境こそが、「月遊病」完治の証(あかし)でしょう。
月を、ただ「きれいだなあ」と眺めるのみで、それとの連関を、その美しさに求めなかったことが、何よりの左証なのです。

*画像、先日の満月。
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by viola-mania | 2008-10-26 00:30 | 天体

性春。

エロ漫画を描いているともだちに、“エロ”を描くことの意義を聞いてみると、
「仕事だから」
とにべもなくいわれ、確かに、生計を立ててゆくための“意義”であることに、間違いはないのでしょうが、結局、それ以上の答えを得ることは出来ませんでした。
ともだちからの答えを待つあいだ、そのことを自分自身にも聞いてみたところ、やっぱり答えは出なくて、ともだちとの電話を切ったあと、何の気なしにひらいた、堀切直人さんの『ファンタジーとフモール』に、「自己特権化は、ヒロイズムと選民意識を呼び出し、そのあげく当人を悲劇的なゴールへ向けて疾走させかねない」とあって、なるほど、ニンフォマニアに分裂型の人間が多いのは、それを支配するナルシシズムによるものだと、このことを理解しました。
そういえば、ゲーテは『ファウスト』のなかで、


 我輩の胸にはふたつの霊が棲んでいる。そのひとつは、愛欲の情と燃え、章魚(たこ)
 の足のそれのようにからみつく道具をもって下界にからみつき、他のひとつは塵の世
 を無理にも離れて、崇高な先人たちの霊の世界へ昇ってゆく


とファウストの口を借りて、分裂型の病症を暗黙のうちに語っているけれど、この“ふたつの霊”というのが、“ナルシシズム”の正体であることを、自己を特権化するような、この一文のなかに読むことは造作もないことでしょう。
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“ナルシシズム”が、青春に固有のそれであるなら、“ヒロイズムと選民意識”を扼殺することは、或いは、可能であるのかもしれません。
つまり、花田清輝の、「……我々には、もはや青春とは愚昧以外のなにものでもないのだ。……喝采を放棄し、尾羽打ち枯らさなくて、なにができるか。我々の欲するものは栄光ではなく、屈辱なのだ」というそのことを理解すれば、この春をひさぐ青二才は、“エロ”という名のナルシシズムの渦中へ、足をひっぱることを、ただちにやめることでしょう。


 到る処に、青春へのノスタルジーがある。……なぜ一気に年をとってしまうことがで
 きないのか

                         花田清輝「晩年の思想」より。
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*文中、堀切直人「ファンタジーとフモール」を、参考にしたことを附記します。
*画像、ハスの春秋。
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by viola-mania | 2008-10-19 00:00 | 文学

聲譚。

けして地図が読めない男ではないんです。
とはいえ、駅の四方を高いビルに包囲された場所とあっては、
「僕、秋葉原で降りるのはじめてなんです」
と本当のことをいわざるを得ないというもの、、、
そんなわけで、「Tokyo Book Maniax」の会場へ辿り着くのに、道々、ふたりのオヂさんに、その道順を訊ねてしまいました。
「でも、よくよく考えたら、ここって、駅の真ん前じゃん!!」
と帰りのきっぷを買いつつ、あとにした会場を振り返ったとき、ようやく、そのことに気づいたというわけです。
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さて、期待を胸に出かけた、「評論系オンリー同人誌即売会」は、でも、期待を裏切るしょぼいイベントで、何だか、出はなをくじかれた思い。
それでも、「出会い」がなかったわけではありません。
長テーブルの上、瀟洒に並べられた、これも、瀟洒な冊子たちが目にはいり、それを売っている女性の、どこか少女じみたところに波長があったものか、このイベントの来歴や、同じ会場で催される、文学系オンリーのイベントがあるという情報を得ることができたのは、やはり、「出会い」あってのことといわざるを得ないでしょう。
その「出会い」に対するお返し? として、『汎用サーチライト』という冊子の創刊号を購入。
とはいえ、義理に流されて欲しくもないものを買うといった、ある意味、オトナのたしなみ? を持ち合わせていないオイラは、そこに並べられたすべての冊子に目を通し、一つでも気になる文章があれば、、、との思いで、ようよう、その一冊を選んだというわけです。
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 声を投げる。
 そのとき声を投げた者によって投げられた声は、投げた長さと寸分たりとも違うこと
 なしに声を投げた者の内において静かに振動する。

 投げた声がどこにもだれにも届くことなく、どこかですとんと落ちてしまったかのよ
 うなとき、声を投げた者の声は、あたかも宛名の書かれていない手紙がどこにもだれ
 にも届くことなく再び自宅の郵便受けに投函されるかのように、ただただ自らの内に
 還ってくる。そのとき、その声はどこかに浮遊する、あるいは、どこかで彷徨するこ
 とになる。そうした声だけが自らの内において振動するとき、声を投げた者は不安に
 陥ることもある。あるいは、ときに絶望の淵へと落とされることもある。そのような
 浮遊する、彷徨する声が自らの内においてのみ振動しているような状態が積み重なる
 ならば、その者の内は、自らの声によって飽和してしまうことになるだろう。

 ときには、沈黙においてすべてが受け留められることもある。それと同時に沈黙は沈
 黙において何も答えずしてすべてに答えるのである。

 わたしがいてあなたがいるのではなく、あなたがいるからこそ、わたしはわたしであ
 ることができるのである。それと同時に、わたしにとってのあなたという存在もま
 た、あなたにとってのあなたという存在がいてはじめて成り立ちうるものである。な
 ぜならば、わたしにとってのあなたとは、あなたにおいてはわたしだからである。そ
 のことはすなわち、わたしとはあなたであり、あなたとはわたしであるということで
 ある。それゆえに、わたしとあなたという関係は、つまり、声を投げる者と声を受け
 留める者との関係はいつでもどこでも反転可能な関係にあるということである。


帰りのきっぷを買い、早ばやと都内をあとに、、、
観光地へと向かう電車に揺られ、この「聲譚」と題された、評論とも小説ともつかない文章を繰り返し読んでいるうちに、電車は地元駅へと到着しました。
たくさんの人の出に嬉々としている構内および駅前を抜けると、きょうあすの食材をストアで買い、これも、たくさんの人の出に気圧(けお)され、我が家までの山道を歩くことに、、、
途中、満開となった金木犀の花の香に会い、その香りをしっかりと聞きつつ受け留め、とぼとぼと、その帰途を辿りました。
とさ。
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*画像、上、駅を完全包囲、中、袖触れ合うも多少の縁、下、満開となった金木犀。
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by viola-mania | 2008-10-12 17:48 | 文学

隣愛。

物事をそつなくこなすことが美徳とされる世の中で、ふと、“そつなくこなす”ことの意味を考えてみました。
物事を“そつなくこなす”ためには、それをこなすひとの周りに点在している“物事”に優先順位をつけ、その順番どおり、それをこなしてゆけば、世の中の美徳に適った行いをすることは、造作もないことでしょう。
でも、この“優先順位”が自分本意なものであったら、、、自分からしてみれば美徳であると感じられることも、世の中からしてみれば悪徳であると感じられるかもしれないね。
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そんなことを考えながら、そろそろ、我が家を覆い始めた、柴(しば)を枝切りバサミで、ザクザク刈っていたら、隣の家のご主人に声をかけられました。
「一気にやらなくても、どーせ、すぐに生えてくるんだから、ゆっくりやればいいよ」
といわれ、もともと、やぶ蚊に刺されることを覚悟した、苦手な柴刈りだけに、何だか気持ちが楽になりました。
「あしたは用事があるんで、、、」
といって断った役員からの出動要請も、仕事よりもまずは、柴刈りといった、“優先順位”に倣ったがため。
はたして、これは、自分本意な“優先順位”であるのでしょうか。
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でも、親友のそれは少し違って、、、
「僕のこころを打ったのは、いつか、家に柴刈りに来て欲しいと頼んだときに、<僕じゃなきゃダメなの??>と聞いたきみに対して、<きみじゃなきゃダメなの!!>といった、僕の我がままを聞きいれてくれたきみが、実は、腰を患っていたということを、柴刈りに来てくれた当日に聞いて、このひとは、自分のことよりも、それを望む相手のことを優先させるひとなんだと思ったこと」
そういえば、隣の家のご主人も、ひと知れず、我が家の柴を刈ってくれていることに気づいたとき、親友の厚意とともに、これが隣人に対する愛なのだな、と感じました。
柔らかな秋の日を眺めつつ、ぼんやりと。。。
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*画像、小庭の秋。
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by viola-mania | 2008-10-05 00:17 | 雑感