<   2008年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

空函。

「四角四面」ということばは、たとえ、それが釣り合いのとれた形状のものであっても、あまり、よいたとえにはつかわれません。
たとえば、それが、「四角四面」の箱であったとして、そのなかに、人為的な何かがはいってでもしたら、もうそれは、嫌味以外の何ものでもなく、箱が箱であるべく形状を失ってしまったも同然といえるでしょう。
ところで、『稲垣足穂の世界 タルホスコープ』(平凡社刊)の筆頭に置かれた、種村季弘の一文のタイトルは「箱」となっていて、そのなかで、種村は、“箱が箱であるべく形状”について、


 無限入れ子構造のどこかに、中身の「実物」が入り込んできたらおしまいである。重
 力の干渉が生じる。重力に拘束されて地上に固着しがちになる。一旦そうなってしま
 えば、中身=実物であろうとして、箱になりたがらなくなる。からっぽの、なにかを
 いれるべく待機している、極薄世界=容器であることをやめてしまう。大人になり、
 それ自体の価値に重厚に自足している実物という、分かりきったものでしかなくなっ
 てしまう。


といい、「箱」が「箱」以外の何かに変容してしまうことを危惧しています。
「世のなかには、三つの完璧なかたちがある。それは、船体、ヴァイオリン、そして少年のからだである」といったのは誰でしたか、、、
この“三つの完璧なかたち”の用途は、いずれも「容器」であって、船体はひとを、ヴァイオリンは音を、そして、少年のからだは得体のしれない何かをいれる、「箱」といっていいでしょう。
そして、種村は、この“得体のしれない何か”がはいった少年のからだを、「箱のなかに箱しか容れない箱」とし、少年の「安物的にぺらぺらした印象はそこからくる」としています。
つまり、少年愛は、“なにかをいれるべく待機している”箱たちのそれを指していうことばでもあるのです。
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by viola-mania | 2008-03-30 11:42 | 文学

菫色。

このところ、当書肆の名に冠した「菫」ということばが気になり、春まだ浅い小庭にスミレの花を探しにゆきました。
ところで、先の日記を読んでいただいてもおわかりのように、『足穂拾遺物語』を繙いてからというもの、この玻璃質のこころを持った、怪物作家のことが気になり、先の書物を読み終えぬうちから、『稲垣足穂の世界 タルホスコープ』(平凡社刊)なる、小振りなビジュアルブックを買ってしまうといった始末。
その帯には、


 A感覚と宇宙的郷愁——
 イナガキタルホの世界を、「箱」「ヒコーキ」から「桃山御陵」まで、42のキーワー
 ドで覗く


とあって、それぞれのキーワードについて42名の作家たちが、稿を寄せています。
わけても気になったのが、「菫色」というタイトルで寄稿している松岡正剛の一文で、このなかで、我らがセイゴオセンセイは、自身の生立ちを辿りながら、タルホが無上の色と見ている「菫色」の秘密を、明らかにしようと試みています。
ところで、タルホの書物のうち、いくども繙くものの一つに、『男性における道徳』があるのですが、セイゴオセンセイは、その作品の一節を引き、「われわれの存在における赤外線と紫外線のちがいというもの」に言及しています。
そして、


 「帰ってから聞かせようと思わないで旅行をする者は一人もいない」。これはパスカ
 ルの言葉だが、なるほど、あらゆる見聞への関心、観光も小旅行も合わして、自分へ
 の好奇心と気晴らしとを目的としている限り、それは邪淫にほかならない。これでは
 赤色あるいは赤外部に属して、菫色ないし菫外部へはほど遠い。


とこの一節を、タルホの旅行嫌いに照らしながら、自身の考察に重ねているのですが、そこには「赤外線的な自己慰安に対し、紫外線的な自己投企を断固として強調しようとした」タルホの意志がうかがえ、こちらも、“紫外線的”なるその花を求めて、小庭という名の「地上」(タルホ的にいえば)を、それこそ、拡大鏡のように目を丸くさせながら、歩いてみたというわけです。
でも、スミレの花は見つからず、、、
とはいえ、それはそれでよいのかもしれません。
だって、タルホもいっているではありませんか、
「一日一度くらいは、自分のなかのもっとも遠方的なるものに思いを馳せなさい」
と。。。

*画像、拡大鏡で見た? 小庭のスミレ。
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by viola-mania | 2008-03-23 00:20 | 文学

独遊。

「永遠の少年」という文句は、不可能であるがゆえに可能であるといった逆説をはらむ、まことにあざといことばです。
そんなことを、時折、頭によぎらせながら、『足穂拾遺物語』のお尻から始まる「解題+校異」を読んでいたら、本書の校訂を担当されたTさんによる、「足穂文体論」とでもいうべく一文に遭遇しました。
Tさんは、そのなかで、足穂の語り口を、モノへの思いいれが、やがて執着となって、読者を巻き込むのだとし、そのことを「独り遊び」に熱中する子供になぞらえながらほくそ笑んでいます。
そして、そんな子供たちには、「必然的に哀感と孤独の陰影も見え隠れするのだけれど、それゆえに、誰にも邪魔されないきっぱりとした潔さがある」と続けています。
そんな「独り遊び」のうちにあらわれる“潔さ”こそが、それを行うもののうちに、真の客観性を与えてくれるのでしょう。
そのことは、天体望遠鏡を覗く少年の所作にも似て、どこか清々しい。
なぜなら、それは、独りでしかできない遊びであるのですから、、、

*画像、『足穂拾遺物語』、青土社刊。
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by viola-mania | 2008-03-16 19:16 | 文学

寿歌。

ネクタイを締めるために、15分の猶予をみておきました。
とはいえ、10年来にもなるこんな所作を、指先はしっかり覚えているから不思議です。
ワイドスプレッドのシャツに選んだそれは赤。
ともだちの晴の日は、また、オイラにとっても祝祭の日というわけです。
白いタキシード姿であらわれた彼は、きょうも輝いていました。
その印象は、彼とはじめて出逢った日から変わることがありません。
だから、正視に耐えない視線は、彼の眼差しを外れると、それ以外の部分を、
「白髪、増えたね」
などと揶揄してしまうのでしょう。
自意識とは、意地悪なものです。
とはいえ、披露宴に参列した、彼の数多いともだちたちのなかで、こんなことを考えているのは、たぶん、オイラくらいなものでしょう。
でも、彼の前でなら赦されると思っています。
こんなともだちが、ひとりくらいいたっていいよね、、、
彼の多才は、さまざまな種類の表現者を誘致します。
わけても、ドラッグ・クイーンによる披露宴の進行は、目にも愉しいものでした。
その間も、回り続けるターン・テーブル。
どこか、耳に馴染む選曲は、彼と共通のともだちによるもの。
「ええと、きいちくん!!」
といわれたとき、そのひとと犯した悪戯の数々が思い出されて愉快でした。
みんな変わっていません。
変わったことといえば、彼が父親になったということくらいでしょうか。
そして、彼の父親が、披露宴の最後にうたった「あかとんぼ」こそ、一番の寿ぎの歌だと思いました。

 あかとんぼ あかとんぼ はねをとったら とうがらし

*画像、赤いネクタイが高校生? のよう。
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by viola-mania | 2008-03-09 18:39 | 雑感

結実。

年々、花を多くつけるようになった白梅の一枝を、小庭から剪ってくると、普段使いのコップに挿し、テレビボードの上に置きました。
いつか、挿花家の川瀬敏郎さんが、部屋に花を活けると、そこに生き物の気配が感じられて安心する、といったようなことを何かの文章に書いていて、なるほど、差水さえ怠らなければ、根や幹から切り離されたその命も、しばらくは生ながらえることができるのだと、いまさらのように納得したことがありました。
或いは、余命が迫っているからこそ、そこに強い気配を漂わせるのかもしれませんね。
さて、先月の始めに着手した作品も、その第一章を書き終え、ようやく、話の転結へと運んでくれる、エピソードのいくつかを見い出すことができました。
とはいえ、その結末は未定。。。
そんななか、何かの符合のように、作品に着手しているあいだは、いつも近くに、この“生き物の気配”が、芳い香を漂わせていました。
いまはまだ、冬ざれた小庭が、春の花に彩られる頃には、着手の作品も、その結実を見ることでしょう。
秋を俟たずして見る結実は、でも、秋薔薇の開花へと結ぶ、胚珠ともなるのです。。。
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by viola-mania | 2008-03-02 11:45 | 雑感