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聖母。

ファウストの恋人マルガレーテは、メフィストフェレスによって地獄へ連れ去られようとしている、この憎くも愛しい男を救います。
そして、「贖罪の女」はファウストのために聖母に祈るのです。
グノーが、ゲーテの「ファウスト」第一部、「グレートヘン悲劇」を題材につくったオペラの『ファウスト』の、これが終幕であり、ゲーテにとっての神が思考の対象であったのに対し、グノーにとっての神は信仰の対象であったことがうかがえる一場でもあります。
グノーは、敬虔なクリスチャンでした。
なるほど、キリスト教の名において行われているこの聖母崇拝は、西洋の文化に顕著な痕跡を残していて、たとえば、カトリックの教会では、父なる神への祈りよりも聖母マリアへの祈りの方が遥かに優勢であるし、マリアの神的誕生が、カトリック教会の信条のうちに数え込まれてもいるのです。
とはいえ、聖書に登場するのは、「ヨセフの妻、マリア」という人物であって、これを神と讃えるくだりは見当たりません。
つまり、童貞(処女の意)聖母は、聖人ではなく想像、或いは、妄想の所産なのです。
ところで、「毋なる大地」ということばがありますが、このことばは、原始民族がその生存の努力から、地中に命を懐胎させている大地を、毋神や処女神に見立ててそう呼んでいるところに、どこか、処女にして毋であるマリアを彷佛とさせ、そのことから、マリアが民間信仰において、世界を支配する大いなる毋神として讃えられているのであれば、“聖母崇拝”もまた、しかりというわけです。
そんなわけで、童貞なる大地聖母が信じられている世界において、このような“処女にして毋”を想像することは、何の不思議もないことなのです。
つまり、「毋一般」の具現化としての毋神が、さらに「生むもの一般」の具現化としての大地聖母となり、「処女一般」の具現化としての処女神に結びつくのです。
そして、「人類を救うもの一般」の具現化としての救い主である毋が、「童貞聖母」として結晶するというわけです。
とはいえ、「童貞聖母」は、女という概念から処女性と母性とを抽出してつくった女の一類型ではなく、女以上のものであり、永遠という名のイデーへ導くものの象徴でもあるのです。
「ファウスト」の終幕に見る、「永遠に女性なるもの」とはまさにこのことをいうのかもしれません。
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by viola-mania | 2007-12-30 10:13

自愛。

コロンをワンプッシュ、その噴霧のなかを潜り抜けることが、外界への通過儀礼? となっていた日から、何か月が過ぎたのでしょう、、、
この数か月、他人のコロンはおろか、自分のコロンの香りすら、受けつけない体質? になってしまいました。
だから、特別なひとと逢うときは、小町にある「香司 鬼頭天馨堂」の沈香をベースにした、「雪ノ下」(地元の地名)という名の香(こう)を焚きしめ、その移り香を身にまとって出かけるようにしています。
コロンでさえも、直接吹きつけたことのないオイラにとっては、これが限界、、、
一等良いのは、海綿に擦りつけた石鹸の香が、まだ、からだから立ち上っている間(ま)に出かけること。
とはいえ、朝風呂にはいる習慣のないオイラにとっては、夢路へと向かうたしなみといったところがせいぜい。
で、このところの朝の習慣といえば、手に薬用クリームを塗ること。
何となく、自分を大切にしているような気になれるから。。。

*画像、薬用クリームとプライベート用の手帖。
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by viola-mania | 2007-12-23 10:47

湯浸。

湯に浸かりながら、物思いに耽ることは、子どもの頃から変わらぬ習慣なのですが、物思う内容も、少年、青年、そして、壮年となったいまでは、空想から理想を経て現実的なものに、、、
風呂にはいる間際に届いた、仕事仲間からのメエルに感化されたものか、ミルキー・グリーンに揺らめく、湯の美しさにひたっている暇(いとま)も得ずに、考えていたことといえば、明日の仕事の段取りについてでした。
さら湯の水面に近づけた指が、短く見えることを面白がったり、適わぬ恋に涙したその顔を湯舟にひたし、息が続く限界に挑戦してみたり、湯に浸かるひとときは、少年や青年だったオイラにとって、一日の余白ともいうべき、ムダなようでいて、大切な時間でもありました。
そんな、“大切な時間”に仕事のことを考えているだなんて、オイラも焼きが回ったものです。。。
なんて、、、
とはいえ、仕事を卑下してそういうのではなく、現実的なことどもを、“大切な時間”に持ち込みたくないと思うのは、夢想癖の強い? オヤヂにとって、せめてもの人情。
もちろん、髪を洗ったあと、トリートメントをして、風呂を出る間際に、必ず洗い流さなければならない、、、
といった実際的なこととは違った、“現実的”なことをいっているんだけどね。
明日は、シャツに黒眼鏡といった防具? をつけて、静かな戦線へと赴きます。
いざ、、、
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by viola-mania | 2007-12-16 08:39

戯画。

P.P.パゾリーニの『ソドムの市』を観るにあたって気になったのは、パゾリーニの父親のことでした。
パゾリーニの父親は、軍人であり、ムッソリーニ時代の全体主義に属していました。
そのことが、後年のパゾリーニにどんな影響を与えたかについては、その作品が雄弁に語っているといえるでしょう。
そんな、パゾリーニの遺作である『ソドムの市』を、1975年の公開当初、世の劇評家たちは、口を極めて、「スキャンダラスな映画」だと酷評し、その後、この映画は、商業ベースの配給網に載せられることなく、伝説と化してしまいました。
その謎に包まれた、パゾリーニ自身の死を、エンドロールとして、、、
ところで、『ソドムの市』は、「エンドロール」ではなく、「FINE」といった画面をもってその幕を閉じるのですが、その少し前に挿入された、親独義勇隊員の青年たちが、互(かたみ)に手を取り合って踊る、社交ダンスのシーンが、この映画を「ソドム」ならしめている、数々のシーンよりも、一等、印象的に感じられるのは、でも、偏向的な見方でしょうか。
というのも、茶の間桟敷きで気安く見れるようになったこの映画を、そのたとえに漏れず、DVDで観たのですが、それを観たひとたちの評判といえば、もっぱら、残虐なシーンに閉口したとか開口したとか、糞尿のシーンにいたっては、開いた口を思わず閉じてしまった、、、といった類いのものばかりで、てんで話にならないのです。
そんなシーンは、見せ掛けの戯画に過ぎず、パゾリーニは、たとえば、「残虐なシーン」では、ひとの肉体が破壊するまでのシークエンスを「商品化」の思想に照らし、「糞尿のシーン」では、廃棄物の産業的な流通を暗示させているのです。
で、「社交ダンスのシーン」の何が良いかといえば、片方の青年によって語られる婚約者の名前が、「マルゲリータ」であることからファウスト的救済(ファウストの恋人の名前は、マルガレーテ)を暗示させつつ、ド・サドの、悪によって創られたものは、悪自身をも凌ぐ力を有するという思想を想起させもするのに、この青年たちときたら、四名の「道楽者」によって処刑が執行されているさなか、館の一室で、ラジオからながれてくる軽音楽に合わせて、社交ダンスを踊っているのです。
そして、オープニングと同じ、この軽音楽によって幕が閉じられるといったすくいようのなさに、パゾリーニの、社会における諦観を見る思いがしました。


 バカめ そう簡単に死ねると思ったか
 永遠の終わりが来るまで 何千回となく殺してやる
 終わりが来ればだが


とパゾリーニ、或いは、サドは、四名の「道楽者」のうちのひとりに、そう語らせています。

*画像、「SARO' サロ或いはソドムの120日間」(原題)より。
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by viola-mania | 2007-12-09 21:32

幻館。

ヒトラーの命令により、解放されたムッソリーニは、その傀儡政権ともいえる、社会主義政権を樹立するべく、ローマのサロという町に、彼の支配下となる政府を置きました。
607日間に渡り存在したその国家は、その町の名に因み「サロ共和国」と呼ばれました。
正確には、1943年9月から1945年4月までの1年8か月、抵抗活動(パルチザン)により、ムッソリーニが斃(たお)れるまでの間、その幻のような国家は存在したのです。
ところで、その原題を「salo'」とする映画に、P.P.パゾリーニの『ソドムの市』がありますが、その原作は、いわずとも知れた、ド・サドの『ソドムの百二十日』であり、たぶん、パゾリーニは、期間限定で存在した館と国家に着目し、この映画の設定を、戦時下に存在した、“幻のような国家”に置き換えたのでしょう。
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ちなみに、サドの邦訳は、澁澤龍彦により「序文」のみ抄訳されていますが、そこまで読んで先が読めないもどかしさから、佐藤晴夫による完訳を買って読んだのは、かれこれ十年以上も前のこと。
ふと、何かの拍子に書架から取り出し、再読してみたところ、かつて、澁澤訳によるそれを読んだときの昂揚と、佐藤訳による「第一部」以降を読み継いだときの幻惑が、ふたたびよみがえるのを感じました。
で、ジュネについで、サドが好きな自らの思考は、やはり、破綻しているとしかいいようがなく、、、
とはいえ、自らが酒に酔っていては酒造が勤まらないように、サドもまた、、、と思うと、何だかサドの思考が、見え透いてはくるものの、読者に昂揚を与え、幻惑させるその筆致には、やはり、屈服せざるを得ません。
そのうち、P.P.パゾリーニの『ソドムの市』についても、何か書いてみたいと思います。
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by viola-mania | 2007-12-02 10:50