<   2007年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

腐朽。

画像は、カラヴァッジョの『果物籠』をバラバラにしたものである。
カラヴァッジョといえば、その生涯に描いた作品のどれもがリアリズムを追求したものであり、画家自身も、そうした現実の醜さや下劣さに身を置き、その短い画業をまっとうした。
既製のことばで、この画家の生涯をあらわすならば、
「スキャンダルに満ちていた」
といえるだろう。
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さて、『果物籠』である。
描かれたのは、1596年頃とされている。
静物画といえども、あえて、腐朽したそれらを題材に選ぶとは、この画家の面目躍如たるところだろうが、それ以前の画家が、その題材に選んできたのは、豊麗なる果実、或いは、肉体であった。
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ところで、着手の作品を脱稿した。
だから、このノオトは、その余波が書かせた「はしがき」としたい。
物語は、
昭和15年9月。
開戦まで、まもない時下に置かれた、少年と青年の爛れた交流を書いてみた。
でも、これといったストーリーがあるわけではない。
あるのは、開戦へと向かってゆく、時間の流れだけである。
だから、彼らは、籠のなかにいれられた果物さながら、腐朽のときを待つ以外、その存在を知らしめる術を持たないというわけだ。
で、“その存在を知らしめる”、彼らの“術”とは、


 だから、腐り始めたこれらの花托(かじつ)を、何にも増して美味しいと感じること
 は、自然なことなのだ。
 きみの、私のからだに貼りついた視線も、甘い腐臭に誘(おび)かれた蛾の様相で、そ
 の翅を息(やす)めているのだろう。


といったもの。
掲載は、こんどの個人誌『薔薇窗』17号。
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by viola-mania | 2007-09-30 07:56

獣園。

二週間ほど前のことになるが、兼ねてより行きたかった、野毛山動物園へ行ってみた。
さて、ケータイ・カメラをひらいてみると、バッテリーがあとわずか、、、
デジタルなのに、フィルムに像を焼きつけるかのような周到さで、園内の風景をおさめてゆく。
テネシィー・ウィリアムズの戯曲のタイトルではないけれど、古くて凡庸な園内の風景を、ガラス質に撮ってみたいとの思惑。
園内は、日曜日とあって、小さな子どもを連れた家族の姿が目立つ。
ときどき、どちらが動物であるのか? といいたいぐらいな、子どもたちの無垢な姿もおさめてみる。
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動物園をいれた野毛山公園の敷地は、思ったよりも広大で、何だかんだ、気がつけば、もう、夕刻。
で、ひとわたり公園内を廻ったあと、いり口の向かいにある、横浜中央図書館で、「野毛山動物園」の歴史について調べてみる。
開園したは、昭和26年とあり、なるほど、“古くて凡庸な”わけだ!! と納得。
で、これも公園内にある展望台から、町並を見下ろしてみると、動物園があるこの場所だけが、時代に取り残されたサル山のように思えた。
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by viola-mania | 2007-09-23 00:02

妄想。

子どもの頃に、「食べ物を玩具(おもちゃ)にするんじゃない!!」と叱られたことって、誰しもあるんじゃないのかな。
ダリの『カタルーニャのパン』(下画像)が、ちょうど、“食べ物を玩具(おもちゃ)に”したような絵で、かつ、勃起したファロスを思わすパンとあらば、“玩具(おもちゃ)に”してみたくもなろうというもの。^^
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さて、いま読んでいる、田坂昂の『三島由紀夫論』のなかに、「奇体な玩具」ということば出てきて、なかなかに、意味深長である。


 すでにここ一年あまり、私は奇体な玩具(おもちゃ)をあてがはれた子供の悩みを悩ん
 でゐた。十三歳であつた。


ユッキーこと、三島由紀夫の『仮面の告白』、第二章は、この一文から始まっている。
当然、“奇体な玩具”とは、“私”自身、或いは、ユッキー自身のファロスにほかならない。
とはいえ、田坂もユッキーも、“奇体な玩具”を“ファロス”と直截には書いていない。
なぜなら、“奇体な玩具”とは、物語における仮象であり比喩であるのだから、、、
そんなわけで、ダリの“勃起したファロス”そのものを描いた絵も、“仮象であり比喩である”必要があるというわけだ。
“必要がある”という意味においては、カラヴァッジオの『ナルキッソス』(下画像)も、そう見ることができるだろう。


 とりわけ印象的なのは、少年の白く輝く片膝である。もう一つの膝は、うしろに引か
 れてほとんどその存在を感じさせない。この前方に突き出た膝は、しばしば指摘され
 るように、男根の位置を占めている。だとすれば、彼は水のなかの少年に対して勃起
 しているわけだ。
 
                            谷川渥『鏡と皮膚』より


つまり、カラヴァッジオは、己の姿に見いるナルキッソスの生理的な“必要”性から、その突き出た膝を、少年のファロスに見立てたのだろう。
暗喩とは、妄想の別称だろうか、、、
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by viola-mania | 2007-09-16 07:01

大写。

ユッキーこと、三島由紀夫の『荒野より』を再読した。
で、「荒野より」以外の読み物のなかに、「映画的肉体論」というのがあって、その字面に惹かれて読んでみると、


 映画のクローズ・アップはもともと、美しい俳優の顔を巨大な観念的な性的対象とす
 るために用ひられた。一定の自然なサイズを逸脱するとき、もつともリアルな描写が
 そのまま一つの観念に転化する、……そこにクローズ・アップの古典的な効用があつ
 たのである。


とあり、この“古典的な効用”を、ギュスターヴ・クールベの代表作とされている、大作『オルナンの埋葬』(画像)に照らしてみて、なるほどそうかもしれない!! と思った。
で、『オルナンの埋葬』について、調べてみたところ、


 この絵にクールベが付けた題名は『オルナンの埋葬に関する歴史画』というものだっ
 た。当時のフランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝
 王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。これに対し、オルナ
 ンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上
 の大事件のように扱い、このような巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メート
 ル)に表して「歴史画」と称するのは当時としては常識はずれのことだった。


とあり、さもありなん!! と思った。
つまり、巨大な画面にクローズ・アップされたのは、“古代の神々、殉教者、英雄、帝王など”、理想化された人物像ではなく、“オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々”だったのである。
ユッキーがいうように、そこには、これまでのスケールを越えた、“もつともリアルな描写が”あり、なるほど、発表当時の酷評も頷けた。
批評家たちにとって、彼らの顔は、“観念的な性的対象”には、なり得なかったのだろう。
とはいえ、巨大な画面にクローズ・アップされた、赤ら顔の鼻のデカイ、彼らの顔を目の当たりにしたとき、下腹にわだかまる何かを感じた。
ひとの嗜好はさまざまである。。。

*画像、ギュスターヴ・クールベ、『オルナンの埋葬』部分。
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by viola-mania | 2007-09-09 00:01

夏休。

朝な夕なに聴かれていたヒグラシの合唱は、いつしか、コオロギのそれへと替わっている。
全開にした窓より吹き込む風も、どことなく秋のそれを思わせる。
日中は相変わらずの酷暑だが、季節は着実に移っている。
そうした虫の音(ね)が、喚起させるものか、秋が近づくと、無性にボーイソプラノのが聴きたくなる。
というより、変声前の少年たちのことが気にかかるのかもしれない。
夏休みも残すところ最後の一週間となった週の始まり(日記を書いた時点で)。
きっといまごろは、、、
と自らの記憶を遡り、宿題に追われているだろう彼らのことを考える。
当然、絵日記も、これから描き始めるわけだが、夏の記憶を遡行する彼らの脳裡には、どんな風景が浮んでいるのだろう。
ところで、“夏休み”といえば、前世紀の終りに、『1999年の夏休み』というヘンな映画を観た。
漫画家、萩尾望都の『トーマの心臓』を下敷きに、劇作家、岸田理生が脚本を手掛けた、この映画の登場人物は、四にんの少年たち、否、正確には、少年に扮した少女たちによって演じられていた。


 ——鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは一つ
 の世界を破壊せねばならぬ。鳥は向かってとぶ。


で、たしかそのあとに、「ぼくはきみに向かって飛ぶ」と、岸田は、ヘッセの一文を引用したあとで、深津絵里演じるところの少年に語らせていたように記憶している。
“記憶”、、、
“夏休み”とは、“記憶”を遡行する、或いは、“少年”に回帰する、といった作業を指すことばなのかもしれない。

*画像、始業日を前に。
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by viola-mania | 2007-09-02 00:12