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三面。

映画監督、山崎達璽の大正ロマン三部作のうちの一つ、『夢二人形』については、「蕾」ページ、<雑感・映像>で触れていますが、そのなかで、

 夢二の、女たちに対する愛のありようも、四様、否、三様である。
 要するに、人間、夢二を映す鏡が、彼の作品であり、本篇のタイトルを借りていうな
 ら、“夢二人形”となるわけだ。

と書いたけれども、その続編である、『三面夢姿繪(みつおもてゆめのすがたえ)』では、彦乃との断絶を余儀なくされた夢二とそれぞれスランプに陥っていた、ふたりの画家の前にあらわれたモデルが、彼らの描いたその絵姿のなかに自らを映すといった、前作の考察とは、逆の構成になっていることに気がつきました。
“スランプに陥っていた、ふたりの画家”とは、洋画家、藤島武二と責め絵師、伊藤晴雨で、彼らの前にあらわれたモデルは、でも、三面鏡に映った自らの姿が違って見えるように、藤島の前では、カネヨ、晴雨の前では、お兼、そして、失意の底にあった夢二に、傑作『黒船屋』を描かせたお葉、そのひとでした。
お葉は、夢二に「おそらく、夢のなかか絵のなかで」会ったことがあるとの既視感を抱かせ、やがて、夢二は、お葉に耽溺、心中する決意を固めるのでした。
一方、晴雨は、お兼の望みに応じ、八百屋お七に材を得た、これも傑作『美女炎上』を描き、お兼と駆け落ちの約束を交わすのでした。
幻の女が、ふたりの男に告げたことばは、「夜半過ぎ」。
夢二と晴雨が、“夜半過ぎ”に訪ねたその家には、お葉でもお兼ねでもない、カネヨと名乗る女と藤島の姿がありました。
幻の女は、
「わたしはカネヨです、それ以外の何ものでもありません」
とひとこと。
それは、三面鏡の両翼が、一つに閉ざされた瞬間でもありました。
そして、カネヨをモデルに、藤島の『芳惠』が描かれたのは、そのあと、大正十五年のことでした。
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by viola-mania | 2007-02-25 10:38

硝知。

 トムは重いガラスの灰皿をとりあげた。大きすぎて指がかからないので、彼はふちを
 つかんだ。彼はさらに二秒間考えようとした——うまく切りぬける手段はほかにない
 だろうか? 死体をどう始末したらいいだろうか? 考えきれなかった、これしか手段は
 ない。彼は左手でドアを開いた。灰皿を持った右手を振りあげて、振りおろす——


パトリシア・ハイスミスが、小説『リプリー』のなかで、主人公、トム・リプリーの秘密を暴かれまいと、彼に使わせた兇器は、ガラスの灰皿でした。
そして、先頃、巷を震撼させた、「切断遺体事件」の容疑者である妻が、夫を殺害するのに使った兇器も、“ガラス”の瓶(正確には、ワインボトル)でした。
ところで、杉江重誠『随筆 びいどろ』のなかに、「ガラスは割れないもの」とする、ガラスに対する概念を覆す? ような発言があって、少し驚きました。
でも、上記に引いた二つの事例(一つは小説ですが)を鑑みてみるに、その兇器は、いずれも“ガラス”であり、「ガラスは割れ易いもの」と考えていた、こちらの概念は、まさに、“ガラス”が割れるように砕け散ったのでした。


 然しガラスを製品として一旦実用に供した以上は、「割れ易い」のは最早ガラス自身
 のせいでもなく、又ガラスの欠点でもない。それは全くガラスを使用する人々の責任
 である、、、


と杉江は、その生業である、ガラス製造者の見地から、ガラスの特質を弁護しています。
そして、割れぬようにつくられた“ガラス”は、それを“使用する人々の責任で”兇器にもなり得たのです。


 ガラスも愛すれば毀(こわ)れず、愛せざれば割れるものである、、、


ガラスのこころ、或いは、ガラスの仮面、、、それらの裏側に隠された秘密は、怒号とも悲鳴ともつかぬ音を立てて砕け散り、兇器となった“ガラス”は、割れることもなく、自らを空しくして、ただ、事件の惨状のみを語るのでした。
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by viola-mania | 2007-02-18 15:56

讃歌。

画家、甲秀樹さんにとってはじめてとなる個展の開催は、七年前の春のことでした。
その二年後、同ギャラリーで開催された、稲垣征次さんとの二人展において、ようやく、甲秀樹なる画家の存在を識(し)るにいたりました。
その二人展「少年讃歌」の会場で観た、或いは、購った一枚の作品との出逢いが、それ以前の二年間とそれ以降の五年間、つまり、七年間に渡る、甲さんとの交友を築くきっかけともなったのです。
おそらくは、挿画家、林月光描く、「青年画」の系図の裔(すえ)に位置するのが、甲さん描く「青年(少年)画」ではないかと推察しているのですが、或いは、亡き林月光への吝惜の思いが、甲さんをして、その担い手であるといわしめる所以であるのかもしれません。
“亡き林月光への吝惜の思い”というのは、畏れ多くも、林さんの手になる青年像を、己が作品のうちに具現化してみたかったというもので、しかしながら、林さんが、いわゆるホモ雑誌に挿画を描いていた時期、はたまた、その黄金期をいまになって回顧するといった現況にあっては、やはり、叶わぬ夢、夢のまた夢でしかないのです。


 成年戒は、赤子から子どもになる時と、子どもから若者になる時と、二度行はれる。
 子どもから若者になる時には、氏神が対照で、其神の助けで人間になり、同時に其神
 に事へるのである。

                           折口信夫「年中行事」より


成年戒を受ける少年が、その神事のときに着用したのが褌で、彼らは、それを締めて若衆宿へ行き、成年戒を受けるまでの間、女人禁制となっているその宿で、禁欲生活を送らなければならなかったのです。
そして、固く結んだ褌は、けして解いてはならないという、それは、一つの信仰でもありました。
そんな、「物忌み」の目で、甲さん描く「青年(少年)画」を観たとき、神になることはおろか、その一群、ひいては村から排斥された少年の哀れが、そこにありました。
でも、その褌は、少年自らが禁を破ろうとして解いたものではなく、解かざるを得ない事情のもとに、解かれたふしが窺えます。
神になろうとする少年の失墜と敗北、、、
“神”とは大仰なことばですが、つまり、それは、大人になるということの謂いでもあるのです。
しかしながら、甲さん描く「青年(少年)画」には、禁を破ることで、新たに得られた、少年の喜悦が、その夢見る横顔に浮び、禁断への夢、夢のまた夢ではないことを、つまり、それが、“亡き林月光への吝惜の思い”を晴す、よすがとなっていたことを教えてくれたのです。


 蜑をのこのふるまひ見れば さびしさよ。脛(ハギ)長々と 砂のうへに居り   
                               
                                     迢空
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by viola-mania | 2007-02-11 09:53

色合。

先日、「100色いりカラーペン」を2セット購いました。
1セットは自分用に、もう1セットは、弟のコドモたち、つまり、オイとメイに、「お年玉」と称して送ってみたところ、テルにて、彼らから、お礼の声をもらいました。
同封の一筆箋に、
「このペンを使って、何か描けたら送ってね」
としたためていたこともあってか、メイは、新年の挨拶もそこそこに、
「何か描けたら、ぜったい送るね」
と可愛ゆいことをいっていました。
また、ことば足らずなオイも、彼なりに、感謝の気持ちを伝えてくれました。
ところで、「100色いりカラーペン」をケースから取り出し、矯めつ眇めつしていたら、ふと、


 日本語で色の名前というと、たいていは紫とか茜とかの植物名、それも染料としての 
 植物の名ですね。そうすると紫にしても茜にしても、もとの植物の実体から離れ切っ
 た純粋な形容詞にならないのです。日本語で形容詞になっている色というと、「赤
 い」「青い」「白い」「黒い」の四つです、、、


山本健吉のことばを思い出しました。
「100色いりカラーペン」を見たときの驚きは、たとえば、初夏や晩秋の頃に見る、山並同様、一つの色にも、さまざまな色合いのあることを再認識させてくれました。
だから、色には、“形容詞になっている色”以外にも、“さまざまな色合いのあることを”、彼らに知ってもらうと同時に、それらの色に感応できる、ひとの目の素晴らしさを、見つめ直してもらいたかった、、、
とはいえ、後者は、自分にいい聞かせたことばではあるのですが、、、


 君がため手(た)力疲れ織りたる衣(きぬ)ぞ 春さらばいかなる色に摺りてば良けむ

                                    万葉集
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by viola-mania | 2007-02-04 09:25