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幻論。

 雪彦は、いまだかつて、誰かに執着を抱いたという経験がなかった。なぜ、他の人間
 たちが、そんなことのために、ぶざまな姿をさらすのか、彼には理解できなかった。
 恋だの、友情だのというものをそんなにも欲しがる人間があふれているということ
 が、まず、彼にとっては不思議でならなかった。


高校三年の夏、当時、麻布に住んでいた同級生のSと、彼の地元の夏祭り、通称「十番のお祭り」に行った夜の出来事が、上記に引いた、榊原姿保美(現、史保美)著、『雪うさぎ』の一節から思い出されました。
祭りの夜の出来事だけは、いまでも、鮮明に思い出せるのに、Sと出逢った経緯や、その交流を思い出そうとすると、夜空に上がった花火の音に、それらの記憶がかき消され、どうにも困難を要するのです。
そもそも、「十番のお祭り」に花火が打ち上げられたという記憶も怪しいもので、要するに、Sと過ごした時間そのものが、どこか、幻めいていて、、、だから、その夜、たまたまカバンのなかにいれていた、『雪うさぎ』の主人公、羽生雪彦に、自己を投影し、Sとの思い出を美化してしまうのかもしれません。


 雪彦の家庭教師でもある南條悠一は、いかにも遊び慣れた、モデルのような顔を歪め
 て笑った。
 彼は、大きな総合病院の一人息子で、例にもれずかなりの遊び人だが、一応父親の母
 校、東大の医学部に籍をおく秀才ということになっていたから、その自信というの
 も、相当のものだった。


美化された恋物語には、当然、容姿に優れた相方の登場は必至だし、できれば、人格や経済力などにも、秀でていて欲しいと、つい、欲張りになってしまうものです。
つまり、そんなアウトラインを持った、状況設定のなかで繰り広げられる、「禁断の愛」こそが、少し乱暴な物言いではあるけれど、「BL(ボーイズ・ラブ)」と呼ばれている、小説、或いは、コミックの一体系ではないかと思うのです。


 1980年代に、少女たちが集う一隅から登場したきわめて不思議な小説群があった。
 その名を「やおい」という。
 「やおいのヒト」が書き、「やおいのヒト」が読む。これほど無視され、これほど批
 判され、これほど無名に、これほど寡黙に、静かに底辺を広げていった“文学”も珍
 しい。
 主題があるとしたら、ただひとつ、美少年どうしの、麗しい青年どうしの恋愛感情を
 書くことだけなのだ。
 表向きはあくまでホモセクシャルな青少年ポルノ小説である。それなのにポルノには
 見えにくい。ジャンルからいえばゲイ文学なのである。けれども数あるゲイ文学とは
 あきらかに一線をひいている。


と松岡正剛は、榊原姿保美(現、史保美)の評論集、『やおい幻論』より、その表題ともなっている「やおい」ということばの発生と、榊原の作品を、“ゲイ文学とはあきらかに一線をひ”く“文学”であるといっています。
ところで、“祭りの夜の出来事”というのは、単に、Sから別れ話を持ち出されたというだけのことであって、カバンにいれていた『雪うさぎ』の主人公、羽生雪彦に、自己を投影していたことが、緩衝剤になったというだけの話です。(笑)


 美少年が美少年を愛する世界を、少女たちが現実化できるわけがない。そこではどん
 なコミットも最初から奪われている穿たれている。すなわち「やおい」は最初から不 
 可能性のうえに成り立った砂上の楼閣なのである。
 こうして「やおい」はもともと孤独であって疎外されている現象だということにな
 る。ふつうなら(社会学的には)、このような孤立や疎外は救いの対象になる。
 しかし、「やおい」においてはこうした孤立と疎外こそが、まさに救いなのだ。だか
 らこそマイノリティとしての「やおい」は維持されてきたともいえた。


つまり、恋に敗れた少年の“孤立と疎外”を救ったのが、このBL小説『雪うさぎ』だった、というわけです。
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by viola-mania | 2007-01-28 09:12

黒曜。

我が家にある、小振りなガラス張りの陳列ケースのなかには、いつか、ミネラルマーケットで求めた、螢石や十字石、また、道ばたや山道で拾った、偏奇なかたちの石などが、さも、勿体つけたかのように並んでいます。
とはいえ、これらは、れっきとした鉱物標本だし、“勿体つけたかのように並”べられる意味は、充分にあると思うのです。
ところで、杉江重誠『随筆 びいどろ』(昭和18年、甲鳥書林刊)のなかに、


 ガラス学では、古くから今以てガラスは個体か液体かと云ふ問題が本気で研究され、
 且つは論議されてゐるのである。


とあり、その製造過程を振り返ってみれば、なるほど、ガラスとは、“液体”であったものが、そのまま冷えて固まったものであるとする考えも、確かに間違いではありません。
つまり、冷えて固まった“液体(過冷却液)”は、放置しておくと安定状態に戻ろうとし、それが結晶化すると、ガラスは“個体”へと変化するのです。
でも、、、
とガラス張りの陳列ケースのなかから、「黒曜石」を取り出し、矯めつ眇めつ、眺めてみます。
愛くるしい少年の黒目を思わせるこの石は、一種の天然ガラスであり、太古の昔から、依然として、ガラス状を呈したまま、結晶化していないという事実は、どうしたものでしょうか、、、


 パスカル・キニャール(高橋 啓訳『さまよえる影』)によれば、古代シチリア島シラク
 サのヒエロンについて人々はこう言った。「彼が王になるには、ただひとつ王国だけ
 が欠けている」。「彼」をただちに少年に置きかえることができる。「少年が王にな
 るには、ただひとつ王国だけが欠けている」と。だが、王国を所有したときから、没
 落が始まる。


ふと、歌人、森島章人さんの 、「きみと歌と死者と」と題された散文詩の一節が浮びました。
コクヨウセキ、、、
“愛くるしい少年の黒目を思わせるこの石は”、結晶化しないことで、その少年の領域を、“太古の昔”より守り続けているのかもしれませんね。

*画像、ミネラルマーケットで求めた、黒曜石の鉱物標本。
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by viola-mania | 2007-01-21 14:22

蠕動。

パジャマにカーディガンを羽織り、“羽織り”というからには、むろん、袖は通さず、カーディガンの一番上のボタンだけを止め、そう、マントかなにかのように、“カーディガンを羽織”ると、のべておいた布団にそのまま潜り込みます。
はい、両腕の自由を、マントかなにかのように羽織ったカーディガンに拘束されながら、、、

 
 いとも奇怪な、畸形な肉ゴマであった。それは、ある場合には、手足の名残の四つの
 肉のかたまりを(それらの尖端には、ちょうど手提袋のように、四方から表皮が引き締
 められて、深い皺を作り、その中心にぽっつりと、無気味な小さい窪みができている
 のだが)その肉の突起物を、まるで芋虫の足のように、異様に震わせて、臀部を中心に
 して、頭と肩とで、ほんとうにコマと同じに、畳の上をクルクルと廻るのであったか
 ら。


幼い頃から、奇怪な書物を読む場所は、頭からスッポリ被った布団のなかと相場が決まっていました。
そんなわけで、カーディガンと布団の二重の戒め? を受け、寝しなに読んだ、江戸川乱歩「芋虫」より、戦争で、罹災者となった須永中尉が、妻、時子によって、その醜怪な姿と様子を、“まるで芋虫”のようだと、形容される箇所を引いてみました。
ところで、ピンク映画監督の佐藤寿保さんは、おととしの冬に公開された、『乱歩地獄』という、乱歩の四つの短篇を、オムニバス形式で撮った映画のうち、この「芋虫」の監督を勤めています。


 「芋虫」 監督:佐藤寿保

 明智小五郎(浅野忠信)と小林少年(韓英惠)のもとに、切断された手足のホルマリン
 漬けが映し出された不気味なフィルムが送られてくる——とある廃墟のような屋敷の
 一室。戦争で両手両足を失った須永中尉(大森南朋)とその妻、時子(岡田夕紀子)
 がひっそりと暮している。時子は視覚と触覚しか機能していない「芋虫」のような夫
 を献身的に介護する一方で残虐な欲望を抑えきれず、異常な性向に溺れていた。そん
 な彼らを、時子の亡き伯父の書生・平井太郎(松田龍平)が屋根裏から観察していた
 が、、、


とこんな具合です。
一方、書物の方の「芋虫」のなかに、


 なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほか
 の対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしびれさせる力を
 もっていようとは、三十年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところ
 である。


という描写があって、“醜怪な”夫の姿に、リビドーを感じる妻の「変態性欲」への目覚めが書かれています。
ところで、「芋虫」が起稿されたのは、いまから、80年以上も前のこと、発表された当時の評判は、「猥書」であるとのそしりを受けながらも、好評であったらしく、また、「反戦小説としてなかなか効果的である」との激励も受けたと、「解説」にはあります。
でも、当の乱歩は、「そういうレジスタンスやイディオロギーのために書いたものではな」く、「極端な苦痛と快楽と惨劇を描こうとした小説」であるといっています。
短篇にしては少し短い、けれども、濃密な感覚世界は、“カーディガンと布団の二重の戒め”のなかで、不具者なるがゆえに、病的で烈しい肉体上の欲望を募らせつつ、やがて、深い眠りの奈落へ貶(おとし)めてゆくのでした。

*画像、映画『乱歩地獄』、「芋虫」より、平井太郎(乱歩)役の松田龍平。
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by viola-mania | 2007-01-14 08:05

頌春。

ドライヤーで寝癖を直しながら、
「どーして、髪、こんなに黒いんだろ」
と独りごつ。。。
それに、
「この瞳も」
と目ん玉を見開き、鏡に近づけてみます。
とはいえ、日本人なので、それは、仕方のないことだし、、、
などと、日本民族の身体的特徴に、諦念したことは、一度もありません。
むしろ、この黒い髪、黒い瞳は、日本人であることの証しであるし、もとより、日本には、世界に誇れる、うつくしいことばと習慣があり、或いは、そのことが、日本民族としての矜持に、拍車をかけるのかもしれません。

 
 いはふ(祝う)といふ語は、色々な語に使はれてゐるが、此ほどなつかしい語も少い。


ふと、「正月」という行事を顧みたとき、民族学者、折口信夫の一節にゆき当たりました。
でも、“なつかしい”というのは、どういうことでしょうか。


 祝福するなどという近来の語は、此語の古い意義に、其があることを忘れたのです。


なるほど、“祝福する”というのは、遅れてきたことばであるのか、などと、思いつつ、新しい年の門出を、こころ静かに、“祝い”たいと思います。


 うつくしきめをの御(み)神と讃へなむ。あまり清(スガ)しき現(ウツ)し身にます

                                     迢空

*画像、甲秀樹さん描く日本製少年。
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by viola-mania | 2007-01-07 11:31

窗開。

朝明けの窗。
カーテンを開けてみます。
ことしも、よろしくお願いします。
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by viola-mania | 2007-01-01 07:00