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飛白。

飛白。
と書いて、「かすり=絣」と読むのだそーです。
知りませんでした。。。
とはいえ、この「飛白」と題された、シロートの書いた(わりに、なかなかの腕前の)小説を読みながら、「飛白」に「絣」ということばをあてて読んではいたので、まったくの見当違いではなかったということです。
前日印象に残った出来事が、夢のなかのストーリーをかたちづくるということは、よくあることで、けさ見た夢に、この「飛白」が出てきました。
正確には、それを着た幼い頃の自分と弟と母が写った、一枚の写真が出てきて、たいそう懐かしい想いに駆られるといったテイの夢でしたが、しかし、その写真に写っていた、「飛白」の着物に浮んだ黒いシミが、その着物にまつわる、苦い記憶を想起させもしたのです。
その「飛白」の着物は、父のそれをくずして、我々兄弟に与えられたものでしたが、ただ、ぞんざいにそれを着ていたコドモに、その着物の価値や意味などわかるはずもありません。
そんなわけで、目新しい衣服を与えられた嬉しさから、その着物を部屋着として着用し、汚してしまったのです。
はい、墨汁で、、、
“汚してしまった”という罪の意識は、父が与えてくれたものに対する意味を忖度するより、価値の方、否、視覚的な醜さの方に、それを感じていたことと記憶しています。
つまり、清潔な藍の香りも新しい、「飛白」の着物を、穢してしまったということの方に、、、

 
 白絣対丈(ついたけ)に着て婚期てふはるけき闇を落つる姉川   邦雄


*画像は、愛用の黒絣。
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by viola-mania | 2006-11-26 18:44

回帰。

イラストレーター、甲秀樹さんへ送った「獣園III」(『緋色の獣』用原稿)の到着確認と補足を兼ね、電話をしてみるも、“到着確認”にかこつけた“補足”が、いつしか、要求に変わっていたことに、我ながら吃驚。
挿画は、三点。
そのうちの二点が、このたびの依頼なのですが、脱稿して間もないせいか、まぶたの裏に焼きついた、彼らの姿が、目の前にあるもののごとく、ことばとなって迸るのを、どーすることもできませんでした。
しかしながら、そこは、甲さん、不躾ともいえる、“要求”を、快く引き受けてくださいました。
やっぱ、プロは違うねえ〜。
ところで、ふだん、まぶたの裏に焼きつける少年像といえば、おおむね、やんちゃで、生意気で、エゴイスティック、その反面、虚無のように従順な「型」もあり、彼らには、抵抗もなければ、媚もないといった清々しさ。
とはいえ、後者の少年像は、何に起因しているのでしょう。
たとえば、幼い時から圧殺をよぎなくされた子供らしさは、思春期が来ても、その匂うような若さを持つことはありません。
そんな彼らが、若者と呼ばれる成熟期に達すると、いきなり、オトナのあくどさとずるさを身につけ、彼らを圧制していたオトナたちへ復讐を始めるのです。
だから、彼らは、その日が来るまで、オトナたちへ、仁義ともとれる仕方で従属するのです。
もう一度、少年期に還ることができるなら、少年のあるべき姿、そのやんちゃで、生意気で、エゴイスティックな、部分を、いまの自分に発掘してもらいたいと、叶わぬ想いに嘆息。。。


 少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて   妙子
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by viola-mania | 2006-11-19 00:04

冬草。

書斎から持ち出したまま、長らくのあいだ、居間の畳の上に拡げられている本があります。
塚本邦雄著、『非在の鴫』(評論集)。
です。。。
ところで、そのなかに、「青淵秘抄 -山崎敏夫論」と題された一文があるのですが、国文学者であり、歌人でもあった山崎との交流から始まる、その一文が気になり、ひいては、そこに挙げられた、山崎のうたに興味を持ちました。


 薄ずみ色の言葉しづかに物言ひてひそひそと心に話しかけて来る映画

 あれはトーキーの揺籃期、おほよそのアメリカ映画が、音を得て有頂天になり、むや
 みやたらに喋りまくりジャズを流しつ放しにしたあの時代に、クレールは映画は映像
 の芸術であるという本然に立ち還り、殊更に音と声を抑へた、それゆゑ心に沁む名作
 を提示したのだ。


と塚本は、山崎のうたを引いたあとで、注釈を附しています。
そして、塚本は、「氏にとつて歌とは心の悲しみを遣(やら)ひ、歓びを記念すべき言葉の器であつた」といい、山崎にとってのうたは、「共に楽しみ共にながらへるべき朋友をそこに見」ることであるともいっています。
つまり、それが山崎のうたに対する、塚本の見識であるわけです。


 眺めつつつひにさびしきこころなり丹(に)の廻廊と青葉のいろは

 青芝の上に置かれし蓄音器よりわき上(あが)りわき上(あが)る旋律なるも

 訪れし春しづかなる小鳥の店世界につづく夕映えのいろ

 大歳(おほどし)のくれ近き街鳥獣店(てうじうてん)に鳥けものらのなきかはすこゑ


山崎の各歌集から、塚本が挙げた二十四首。
そこから、気になるうた四首と、下記に、一等好きなうたを挙げてみました。


 孤に徹し父を憎みてやまざりし人もありけり冬くさのいろ


青い灯の燃えるストーブの傍らで、その火の匂いを感じながら持つ、ひとりの団欒(まどい)が好きです。
もうすぐ、そんな、冬がやってきます。。。
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by viola-mania | 2006-11-12 00:52

家畜。

 豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている


このうたにはじめて出逢ったのは、まだ、1月15日を「成人の日」と制定していた頃の、その日のことと記憶しているのですが、手許にあるマーブル模様の手帖には、このうたが掲載されていた新聞の切り抜きが、1999年6月3日と日付けが書かれたあとの数頁を使って、他の切り抜きとともに糊付けされています。
でも、確かに、「成人の日」であったはず、、、
とはいえ、この手帖を使い始めたのは、その年の三月からとこれも日付けが書かれているし、翌年の「成人の日」には、違う事柄が記されているので、そこから推察しても、濱田康敬の「豚」のうたに、はじめて出逢った日が「成人の日」であったとする記憶は、憶測でしかなかったということが証明されます。
それにしても、この「豚」のうたに詠まれた、「成人式」というオトナへの通過儀礼が、忌まわしく感じられるのは、或いは、「豚」ということばをそのタイトルに据えた、P.P.パゾリーニの映画、『豚小屋』(1969年)の印象が、かのうたとオーバーラップするからなのでしょうか、、、


 社会が、社会全体が、子供たちを喰い殺しています。不従順な子供も、そして従順で
 も不従順でもない子供たちも。子供たちは従順たるべし、これしかないってわけです
 よ!


主人公の青年、ユリアンの奇行は、彼が大切に飼っている「豚」たちへの愛欲の行為であり、その愛の深さゆえ、彼は、「ボタン一個残さず」、「豚」たちに喰い殺されてしまったのです。
“社会が、社会全体が、子供たちを喰い殺しています”という、パゾリーニのメッセージは、まったく希望のないヴィジョンが、確たる現実となることを、この作品を通して告知しているかのようです。
ところで、二十歳の青年、濱田に、「豚」のうたを詠ましめた感情は、この、「豚」というものが「おぞましい」、「穢ならしい」、「性悪な」ものであるとする、彼の心緒であり、また、“オトナ”社会に対する畏(おそ)れであったのかも知れません。
とはいえ、「文明人」の良心の要請を満たすには、「豚」という、かくも安価にその血肉を提供してくれる輩(やから)の存在や、彼らが、その侮蔑の対象となってくれていることが、絶対不可欠であるという、悲しいパラドクスもあるのです。
最近、二十歳に満たないコドモたちの自死の報せをよく耳にします。
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by viola-mania | 2006-11-05 08:12

春画。

さて「霜月」です。
ことしも残すところあと、、、なんて、野暮なことはいいません。
なにせ、「シモツキ」→「下月」ですから;
そんなわけで、「ポルノトピア」に、個人誌『薔薇窗』でもおなじみの甲秀樹さんの「春画」をアップしてみました。
お父さんの「春画」は、書棚の奥に隠してあるというのが、定説です(ヒント)。
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by viola-mania | 2006-11-01 00:09