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風戀聞。

 彼は、少し苦しいと言い、苦しいことはおれは好きだ、といった。
                                       赤江瀑『オイディプスの刃』

彼は、少し苦しいといい、苦しいことは俺は好きだ、といった。
そして、彼は、壁に掛かった日本刀を持ち出すと、刀身を鞘から抜き、上から下へ振りかざした。
ビューッ、ビューッ。
初夏(はつなつ)の重い温気を切り裂くように、彼は、夏服の白いポロシャツ姿のまま、暗い室内に、時折、白刃の刃文(はもん)を浮かばせながら、独り稽古に没入していった。
鴨居に手を遣り、窓の外を眺めている背後に気配を感じて振り返ると、皐月(さつき)の陽光を受けて的擽(てきれき)と耀(かがや)く刃(やいば)の反映を、その白い歯列の上に宿した彼の貌(かお)があった。
苦渋に満ちた彼の美貌が、卑屈に歪んでいる。
彼と同じ、夏服の白いポロシャツの背に、一条の汗が、ゆっくりと伝って行くのを感じながら、湿った畳の上に胡坐をかくと、何事もなかったかのような顔で、彼を見上げた。
白いポロシャツを脱いだ彼の膚(はだ)の匂が、鼻腔を掠めた。
「少し苦しい、でも、苦しいことは俺は好きだ」
と彼は、刀を持ち出す前にいったことばを、もう一度、譫言のように繰り返すと、刀の柄を向けて、
「お前も振ってみろ」
といった。
しかし、彼が刀を振りかざしたときに聞こえた、あの音を耳にすることはなかった。
彼は、落胆した表情で、刀身を見詰めていた。
沓脱ぎに腰を降ろし、靴紐を結びながら帰り支度をしているその頭上に、彼の声があった。
「お前が振りかざした刀から、あの音が聞こえなかったのは、、、いや、やめておこう」
真直ぐに空を切るような、真剣な想いを感じながら、彼の家を後にした。

                                                   畢
                                           *「擽」は代用字。
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by viola-mania | 2006-02-19 18:41

黒衣苺(くろいいちご)。

 キリストの己を捨て給ひしは、水の洗をもて言によりて教会を潔め、これを聖なる者として、汚点なく皺なく、凡
 て斯くのごとき類いなく、潔き瑕なき尊き教会を、おのれの前に建てん為なり。
                                            エペソ5-26・27

父には、幾人かの妻があった。
しかし、そのなかにわたしの母はなかった。
父は、わたしのように母のない子供たちを、父の妻たちと同様、幾人か持ち、父の妻とわたしたちは、街頭、或は、粗末な一間(ひとま)で、客を取り、そして、その客と床を共にしながら、父を養っていた。
あるとき、わたしは、客のひとりから、花代と共に、キリストの教えが記された一冊の書物をもらった。
黒衣を纏(まと)ったその男は、女のひとのように柔らかな手で、わたしの頬を撫でると、
「聖書は、お前にとって、苦海の上に瞬く星となり、お前を良き場所へ導いてくれるだろう」
といいしな、粗末な一間を出て行った。
わたしには、黒衣の男のいったことばの意味を解することはできなかったが、男の柔らかな手の感触は、夜具のなかで抱かれたときよりも温かく感じられた。
わたしは、聖書をひらくごと、そのおもてを撫でては、男の手の温もりを思い返し、キリストの教えが記された、その書物に読み耽るのだった。
幸い、わたしは文字の読める子供だったから、聖書に記されたキリストの教えを読み解くことに、何の支障も感じなかった。
わたしは、聖書を読みながら、父は、わたしにとってキリストであることを悟り、わたしたちが暮すこの場所は、父
にとって、“キリストの花嫁”と呼べるものであったことに思いいたると、わたしは、わたしの父、キリストに手を合わせるようになった。
しかし、その頃、わたしのからだは、悪性の梅毒に犯されていた。
病を知った父は、この場所で商売のできなくなったわたしの両腕を切断すると、わたしに黒衣を纏わせ物乞いをさせるのだった。
そして、わたしは、その日から、キリストに手を合わせていない。

                                                   畢
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by viola-mania | 2006-02-18 19:23