カテゴリ:少年( 16 )

水色。

水色のシャツに袖を通すと、朝食の仕度に取りかかりました。
新聞を取りに郵便受けをあけると、見覚えのある筆蹟が目にはいり、早速、その小包をといてみると、


 Crows and Pearls


とタイトルが記された、水色の包みがあらわれました。
写真家、森栄喜さんから、彼のファースト写真集が届く。
水色の包みをあけ、14枚の写真の裏に記された、ひとつの物語に目を通します。
水色のシャツの袖口が、写真と物語を捲ることすら、誰かの記憶の断片を見るかのような、そんな夏の朝のひとコマ。。。
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*画像、Crows and Pearls/写真 森栄喜 物語 小林小路
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by viola-mania | 2009-08-02 09:18 | 少年

樒雨。

最近、懇意になった青年と動物園へ行きました。
小さな山の頂(いただ)きにあるこの古い動物園へ辿り着くには、その途中にある公園を迂回して行かなければなりません。
そんなわけで、急な勾配に息を切らしたこちらが、目の前にあるベンチへ腰掛けると、
「少し話そうか」
とさりげなく、その青年にも腰掛けるよう促してみます。
さて、寡黙な青年に二三の質問を投げ掛けると、その応えを聞くなり途切れた会話。
とはいえ、気まずい空気は、互いの上に感じられません。
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暮れ方の公園にどよもす喚声。
近くに学校があるようです。
その声の方へ青年が歩き出したので、これに従い、学校のグラウンドを走る少年たちを見下ろしていたら、
ポツ、、、ポツ、、、
と何かが落ちる音がしました。
降り出した雨のように落ちてきたのは、樒(しきみ)の花で、その巨木の下で、青年とふたり、しばし、追想のときを過ごしていたようです。
「中学生のとき、同級生に告白されてから、そいつとは、高校生になるまでつき合ってたんだけど、あとは、それっきり、、、そっちは?」
と青年がいえば、
「動物園、閉まっちゃったかもね」
と何の脈絡もなくこれに応えてみます。
だって、好きだった同級生が、死んでしまったとは、いくらなんでも、こんなベタなシチュエーションじゃ、いえないよね。
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ところで、青年のどこか抹香臭い風貌から、この“樒(しきみ)の花”の特性を思い出したのは確か。
案の定、閉まっていた動物園を尻目に、横浜の町が一望出来る場所へ青年を案内すると、暮れ方の景色を見下ろしながら、亡くなった同級生のことを考え、ついで、青年の口から彼の両親が亡くなったと聞かされたとき、
ポツ、、、ポツ、、、
と降り出した雨が、頬を濡らすのを感じました。
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*画像、上、或日の動物園、中、樒の花、下、或日の眺め。
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by viola-mania | 2009-07-12 14:45 | 少年

青脚。

きのうの日中は、約1時間をかけて駅に着き、それでも行ってしまったばかりの電車を待って、目的地である横浜に着いたのは、家を出てから2時間あとのことでした。
待てど暮らせど来ないバスの到着に、なかば、ゴウを煮やすかたちで、いっかな点かない、その停留灯をにらんでいたら、
「もう、バス来る?」
と蝶のように飛来した? 少年から訊かれ、
「うん、そろそろ」
と応えてみるも、その定刻からユウに10分は過ぎていました。
タメグチで問い続ける少年のそれに、どちらが少年であるのか? といった実直さで応えているうち、その少年は、ふたたび、蝶のように飛翔しました。
さて、ようやく到着したバスの車窓から、通りを歩く少年に手を振り、その滑走に優越を感じていたのもつかの間、乗り込むひとの多さと渋滞に、どちらが蝶であるのか? といった閉息を感じました。


 「青ぞらの脚」といふものひらめきて監獄馬車の窓を過ぎたり   賢治

*画像、青ぞらの脚。
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by viola-mania | 2009-06-28 17:23 | 少年

書庫。

カリマーのディバッグから、赤ワインとチーズとワイン・オープナーを取り出すと、
「これ、一緒に呑もうと思って♪」
と小難しい書物が載ったテーブルの隙(ひま)にそれらを置き、
「さて、空になったバッグに、何をいれて帰ろうか!?」
とセンセイの書庫に、城壁のごとく積まれた書物の山を崩しにかかりました。
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それにしても、こちらとは明らかに違う読書傾向と、その積まれ方のプロっぽさ? に、オトナの書斎とコドモの勉強部屋ほどの違いを、歴然と見せつけられたような気がしました。
さて、そんな書物の山から引き抜いたのは、
「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」橋本 治
「賭博/偶然の哲学」檜垣立哉
「泣菫随筆」
そのうち、『泣菫随筆』は、それが、きょうの書庫探訪のきっかけとなった一冊で、帰りしな、もらったその一冊と、借りた二冊の書物をバッグにしまっていたら、
「冨山房百科文庫から、このひとの<茶話>が出てるんだけど、駅前の本屋にあるから見に行こ!!」
といわれ、センセイの気遣いを、見送りというかたちで、ありがたく受けました。
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そんな、センセイの書庫にいとまを告げると、蛍光灯の明るみのなかで見たセンセイの姿が、かって、きょうのように書斎を見せてくれた、ある大学生の姿と重なりました。
こちらが、まだ、少年だった頃の甘やかな、否、書物の隙(ひま)から立ち上ぼる、かび臭い記憶です。
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*画像、上、城壁のごとく積まれた書物の山、中、下駄の響きも朗らかに、下、センセイが組んだ冊子。
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by viola-mania | 2009-06-07 23:18 | 少年

行方。

ご家族のつき添いで病院へ行った年少のともだちが、そこの看護士にコドモ扱いされたという話を訊き、
「だって、きみ、コドモじゃん!!」
とにべもなくいい放ったことが、帰りの電車で席を譲った母子を前に、ふと、思い出されました。
満員電車のなか、傍若無人に振る舞うコドモは、ある意味、暴君であり、そのコドモの行動に、オトナことばで応対する母親とのコミュニケーションは、でも、不思議とコドモのこころを掴んでいるようでした。
とはいえ、コドモがわかるのは、母親の話すオトナことばではなく、コドモに対する母親のこころなのです。
なぜなら、「童心」は愛と一体のものであって、愛なくして「童心」はありえないわけだし、母親の顔がコドモの手によって、どんなに酷くゆがめられようとも、その愛によって自己をなくした母親が、それをとがめることなどありえないからです。
ところで、我が家のラグの上に落ちていた糸屑を仔細らしくつまみあげ、それが自らの関心の埒外のものであったと知るや、ふたたび、ラグの上に放ったともだちの行動は、でも、それを眺めるオイラの目には児戯としか映らなかったけれど(ふつう、ごみと看做して始末するよな!!)、ともだちにしてみれば、自らの法則にかなった生活行動なのです。
そんなわけで、彼ら、コドモたちが、どのような生活行動を選ぶにしても、そのことを欲するときに欲することができれば、それでいいのでしょう。
だから、やめたいと思ったときには、いつでもその行動の枠から「もうやーめたっ」といって立ち去れる自由が、彼らには補償されているのです。
そして、コドモたちは、いかに面白い遊びを得ようかと、ミツバチのように花から花へと漂泊し執着することがありません。


 わが肌は汗のみ着つつうすびかれ愛すべし天衣無縫の行き方   剛
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by viola-mania | 2008-11-30 07:05 | 少年

童心。

リン、リン、リン、、、
と鳴る黒電話の音に、はた、と起きると、電話に出てから切るまでの時間が、現実の名のもとに有限であるにもかかわらず、無限のように感じられたのは、その時間が非現実な空間を得ていたからにほかなりません。
或いは、その非現実な空間へと繋がる「扉」を潜った我々は、「永遠」という名の時間軸の上を逍遥(しょうよう)していたのでしょう。
だから、
「ちょっと、トイレ、、、」
といって、現実の時間へ戻り、ふたたび、非現実な空間へと繋がる「扉」を潜ろうとしたところで、それを果たせなかったのは、一にして、全なるものが「時」の習性(ならい)であるからなのです。
それにしても、部屋住みの年少のともだちのおうちへ電話をかけ直し、彼のお母さまが出られたときほど、この有限の現実を思い知らされたことはなかったね。
だって、時計を見たら、深夜の2時。
我ながら、オトナげないことをしてしまった、、、とこれを反省。
それにしても、有限の現実から、無限の「扉」を潜ったとき、自己矛盾としてまとわりついていた、拘泥や執着から解き放たれたのには驚きました。
「永遠」という名の時間軸の上にあったのは、有限の現実に住む我々が、希求してやまない、コドモの世界だったのです。


 おお永遠の光よ
 おのれの中にのみましまし
 おのれのみ おのれを知り
 そして おのれに知られ
 おのれを知りながら愛し
 また ほほえみ給う者よ

                        ダンテ『神曲』より


童心とは、この神の愛のなかにあるものであり、愛のなかにあることを疑わないこころなのです。
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*画像、甲 秀樹・竹邑 類「甲類展 -少年趣味・少女趣味」(11月28日〜12月7日 ポスターハリスギャラリー)DMより。
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by viola-mania | 2008-11-23 00:55 | 少年

童児。

「きょうは、ワンちゃん一緒じゃないの?」
とオイラ。
「、、、うん」
と小さなともだち。
発車を待つバスのなかでの“ワンちゃん一緒じゃないの?”は、いささか突飛な質問ではありますが、小さなともだちのさらに小さなともだちとも懇意なオイラゆえ、その少年の顔を見ると、ワンちゃんの顔が思い浮かぶというわけです。
さて、その日中は、青山にある「児童室」で時間をつぶそうと、沓脱ぎでスニーカーをスリッパに履き替えていたら、司書の女の子が不審そうに? 近づいてきたので、
「読ませてもらえますか?」
と尋ねたところ、
「子供向けですが、よろしいですか?」
と尋ね返されたので、
「はい」
と応えて、低くも高い敷居をクリア。
いりぐち近くの棚から、児童文学に関する書物をしかつめらしく取り出すと、部屋の中央にある楕円のテーブルからイスを持ち出し、そのテーブルに集まって読書をしている少年少女たちより少し離れた場所にイスを置いて、彼らよりデカい図体のわりに小さな態度でこの場の礼に従います。
たとえその格好が、いわゆるガーリーなものであっても、おぢさんであることに間違いはないのですから、、、
とほほ。
ところで、すっかり眠ってしまった少年の肩を叩いて、最寄りのバス停で下車。
信号を待つのももどかしく、オイラを追い越して行った少年の先きには、ワンちゃんが二匹いて、いずれもそのからだにつけた四本の足を夜風になびかせていました。
「、、、って風船かよ!!」
と少年も思ったに違いありません。
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by viola-mania | 2008-09-07 09:42 | 少年

三角。

お盆間際の週末。
空いていると見込んでいたバスや電車は混んでいたけれど、どの顔の上にもストレスは感じられません。
きっと、こちらの上に、それがないのでしょう。
“顔の上”といえば、太腿および二の腕を放恣(ほうし)なまでに擦り寄せてきた、ギター少年の寝顔の上には、三つの黒子(ほくろ)が三角形を結んでいました。
その肌理の細かい片頬に陶然としながら、三島のユッキーの遺作、『天人五衰』のなかの、左の脇に三つの黒子が昂(すばる)のかたちに並んでいる、主人公、安永透(やすながとおる)を思い出しました。
横浜から渋谷へ到着するまでの、つかの間の転生でした。


 天人五衰
 新潮社  1971年(昭和46)2月25日 初版
 「豊饒の海」の最終巻。最終回の原稿は、三島の死の当日の朝、編集者に渡された。
 76歳になる本多の前に、本多の自意識の雛形であるかのような少年・透が現れる。本
 多は透を養子に迎えるが、透は自殺に失敗し失明。彼は偽者の生まれ変わりだったの
 だ。本多は60年ぶりに月修寺を訪れ聡子と再会するが、聡子は清顕という人物のこと
 を知らず、すべては本多の夢物語ではないかと語る。結末は当初の構想と大きく異な
 るが、三島は最後の本多の心境について、あるいは「幸魂(さきみたま)」に近づい
 ているかもしれないとも述べた。

                 「三島由紀夫文学館 三島由紀夫代表作品」より
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by viola-mania | 2008-08-10 00:34 | 少年

含羞。

梅雨明けの声を聞かぬまま、季節はすっかり夏へと突にゅう。
雨雲の向こうに覗いている青空を仰ぎ見る、小糠雨(こぬかあめ)に濡れそぼった15歳のきみの横顔(プロフィール)は、7年のとしつきを経たいま、青年のそれへと変わっていました。


 きょうは、雨降り。
 雨の降り方にも梅雨らしさがうかがえます。
 その少年にはじめて出会ったのは、4年前の、梅雨のただなか、、、きょうのような
 雨降りの日でした。
 下校途中の少年は、朝から雨が降っているにもかかわらず傘を持っていませんでし
 た。
 バスのなか、眼の前に立った少年をいぶかしく思いつつも、その実、少年の容貌に惹
 かれていたことは否めません。
 でなけば、同じ停留所で降りた少年に、信号待ちの横断歩道で、傘を手向けるはずが
 ありません。
 少年とひとつ傘のなか。
 無言の数十秒間が、一生のように長く感じられました。
 「傘、持っていく?」
 「いえ、ありがとうございました」
 少年との分かれ道、家まで走れば数秒ほどの場所で、そんなことばを交わして、少年
 とは別れました。
 それから、何度か、停留所で見かけていた少年ですが、やがて、見かけることもなく
 なり、月日だけがながれてゆきました。
 そして、きょう、、、
 雨降りの停留所で、少年は、蝶のようにひっそりと傍らに佇んでいました。
 その容貌も、サナギだったあの頃に比べて見違えるような美しさ。

  ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。

 世阿弥の唱えた、花の伝えが、ふと、思い出されました。
 そして、バスを降りた少年は、朝の改札口へと紛れてゆきました。


「時分」と題した日記を、スミレノオトに載せたのは、3年前の7月のこと。
その少年、否、青年と同じバスに搭乗しようと、青年の白いTシャツの背中を見るとはなしに眺めていたら、かすかにコロンが香りました。
オトナのたしなみを身につけた青年をおもはゆく感じながら、後部シートに掛けると、青年は、そのたしなみのゆえか、空いているシートに掛ける気配もありません。
そんな青年の含羞(がんしゅう)をゆかしく感じながら、青年のほうに目を向けると、
「あの雨の日のこと、しっかり覚えてますよ」
と無感心をよそおった、青年の優しい瞳に逢いました。
こちらも無感心をよそおいつつ、青年の視線を軽くかわしました。
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by viola-mania | 2008-07-27 00:00 | 少年

実直。

一つ前でも後でもダメ。
そのスクール・バスに乗るには、実直さが必要です。
たとえば、このバスに乗っている少年たちの、それが制服となっている、Vネックのセーターを見てみると、その両腕には、いつもきちんと折り目がついています。
そんな、実直さを持って、定刻より数分遅れて到着した、一つ前のバスをあえて見送ると、こちらは、定刻どおりに到着したスクール・バスに乗って、仕事場まで、、、
通称、バンビのとなりに座ると、バンビのとなりには、これも通称、青菊(あおぎく)が座っていて、その向かいのシートには、中学生の青菊と同等の口をきいている、小学生の男の子がシートの上に両ひざを立てて座っています。
つまり、その両ひじを背もたれについて、後ろの席の青菊と話しているというわけ。
なんだか、パブリック・スクールを舞台にした、映画のひとこまのような光景です。
寄宿舎映画の導入部が、すでに大人になった主人公の、淡い回想から始まるように、その光景に、在りし日の自分の姿を重ねていたのかもしれません。
そんなわけで、ポロシャツの両腕には、いつもきちんと折り目をつけています。
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by viola-mania | 2008-07-20 06:51 | 少年