カテゴリ:雑感( 45 )

立止。

仕事帰りに立ち寄った古書店の店先で、『朝日新聞の用語の手びき』を見かけました。
そのこぶりな判型に気持ちが揺らぐも、買ったところで、20数年前の用語辞典など、使えるべくもありません。
それに、財布から小銭を出すのも、少し億劫。
とはいえ、100円ならば悪くない買い物だし、この手の辞典を集めている、編輯子Mさんとの話の種にもなろうというもの。
そんなわけで、神田教会の前で立ち止まると、いま来た100メートルあまりの道を引き返し、その用語辞典を買いに戻りました。
d0004250_9402953.jpg



 われわれにとって確実性の根拠になるのが経験であるとすれば、それは勿論過去の経
 験である。
 そしてそれは単なる私の経験といったものではなく、私の知識の源泉である他人の経
 験なのだ。


この薄くなった金文字を、指先でなぞっていたら、ウィトゲンシュタインのこんな一文が思い出されました。
ウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』のなかで、我々が何かを「知る」という過程は、「信じる」と同義であるといっています。
つまり、「知る」ことは「信じる」こと抜きには成立しないし、その反対もまた、しかりであると、、、
d0004250_9404553.jpg



 ひとは言うかもしれぬ。われわれが他人を信用するようにさせるのも、やはり経験で
 はないか、と。しかしどんな経験が私に、解剖学や生理学の教科書に嘘が書いていな
 いと信じさせるのか。もっとも、この信頼もまた私自身の経験によって支えられてい
 る、ということは正しいのだが。


いまは使えなくとも、かつてそれを使っていたひとの経験を支えていた、この用語辞典を手に取り、「知る」ことは、“私の知識の源泉である他人の経験”を「信じる」ことなのかもしれない、、、
などと、立ち止まって考えてみます。
d0004250_941064.jpg


*画像、上、如月を見下ろす、中、薄くなった金文字に立ち止まる、下、如月を見上げる。
[PR]
by viola-mania | 2009-02-01 09:45 | 雑感

恩返。

「一万円でいいですか?」
とSuicaのチャージに投じるその額を、もう一度確認すると、
「おばあちゃん、太っ腹!!」
とこちらも、いまさっき、チャージャーに一万円をいれたのはいいけれど、Suicaのチャージに投じたのは、二千円でした。
「ご親切にありがとうございます」
と頭をさげているおばあちゃんに、別段、感謝されるようなことは、何もしていないと思えたオイラは、けさ、立ち寄ったコーヒー・ショップで、買ったばかりの手袋を落とし、それを探しに戻った折り、近くに座っていたおぢさんに、
「手袋、カウンターに預けてあるよ」
といわれ、そのカードで買った手袋(未払い)との再会? に安堵したのでした。
そして、うしろを振り返り、そのおぢさんに頭をさげたところ、軽く手を振るおぢさんの表情は、別段、感謝されるようなことは、何もしていないという風に、はにかんでいました。
とさ。。。

*画像、柔らかにほころぶ寒椿。
d0004250_0191233.jpg

[PR]
by viola-mania | 2009-01-18 00:20 | 雑感

雑嚢。

庭の一隅に杉林を持つ我が家の敷地は、この土地に古くから住んでいる、ある一族の所有になるもので、そこに建つ二つの家屋は、賃貸に際し、その境界を、竹や楓(かえで)といった茶の湯の雅趣に必須な植物によって隔て、かつ、移民であるオイラとお隣さんのプライバシーは、その生け垣によって保たれています。
さて、この週末は、冬ざれた庭とて草取りをせにゃあかんとばかりに、それに手をつけるつもりではいたのだけど、パチパチと鳴っている金属音に、
「もしや、大家さんが庭に来ている?」
と枕上(まくらがみ)から聞こえてくる剪定鋏のそれに、布団を上げ、ヒゲをあたり、身繕いを整えると、カーテンをあけて庭に出ました。
「えっ!! 庭師、、、しかも、二人組」
なるほど、「餅は餅屋に」というわけですね。
なまじ素人が、ぞんざいに枝をあたるより、植物にとっては、玄人のそれのほうが、どれだけ救いになるか、、、
などと儲けた時間を託つているオイラって、やっぱ、根っからの不精、否、不粋ものなのだと、先人の残していった庭を顧みつつ想うのでした。

*画像、雑嚢ふたつ?
d0004250_0273713.jpg

[PR]
by viola-mania | 2009-01-11 00:30 | 雑感

悪友。

クリスマス・カードを貰ったきり、賀状も出さずに放置してしまった、悪友Kに、その不義理を詫びるべく電話をしてみたところ留守でした。
とはいえ、新年早々聞きたい声でなかったことは確か。
そんなわけで、Kの不在にホッしていたら、
「俺だけど、、、」
と折り返しかかってきたKからの電話にびっくり!!
というのも、当然、着信履歴をもとにかけてきてくれたとばかり思っていたKからの電話は、自発的なそれだったというわけ。
「きのう、近所のともだちと古い<薔薇窗>見てて、そのコがきみの作品いいっていってたよ」
とKの自尊心をくすぐってみたところ、
「何やってるコ?」
と聞かれたので、かくかくしかじか話したら、
「そのコが本出すときいって、俺が装幀してやるからさ」
だって、、、無論、有料で!!
ちなみに、Kの職業はデザイナー。
「“してやるから”って、きみ、いったい何様!?」
と突っ込んでみるも、そーいうオイラも、Kの不在に、
「せっかく電話してやってるのに、何で出ねぇーんだよ」
とかなり、何様のつもり。
とはいえ、唯一、腹を割って話せるのが、この悪友というのもありがたいことで、K以外の誰ともお金の話にならないのは、Kという人間が、ハングリーに世のなかを生きていることの証拠であり、だから、唯一、頼みになるのは、K以外にないということになるのかもしれません。
もっとも、そんな心配をかけないようにするのが、ともだちとしてのたしなみではあるのだけれど、、、


 悪友のひるねの臍に一つぶの葡萄を填(は)めて去る 聖母月   邦雄

d0004250_2329586.jpg


*画像、元日に届いた賀状の束、、、ありがたいことです。
[PR]
by viola-mania | 2009-01-04 00:14 | 雑感

開幕。

近所に住んでいる年少のともだちを、門前で見送ると、
「良いお年を!!」
という柝(き)の音のような清々しい声が返ってきました。
さて、「K1 ダイナマイト」をみながら年越しそばをいただき、食べ終えた食器を洗ったあとで冷蔵庫をあけると、そばにのせようと用意しておいた「かき揚げ」がはいっていて、スゴいショック!!
何がショックかって、その「かき揚げ」をそばにのせていただくことで“年越しそば”を食べるという慣習が遂行されるはずだったのに、、、
「やきがまわったなあ」
とその薄くなった「年越し」に対する意識に、一抹の悲しさを覚えるのでした。
とはいえ、新しい年の開幕に際し、これといったことは何もしていなくて、だから、ことしのそれは、たんに日付けが変わり、かつ曜日が変わるくらいな気構えでしかありませんでした。
d0004250_1934182.jpg


そんななかでの、「薔薇窗カルタ取り大会」は、だから、耽美文藝誌『薔薇窗』が行った年を総観しつつ、来たる21号からの方向性を検討するべく良い機会となりました。


 わが肌は汗のみ着つつうすびかれ愛すべし天衣無縫の行き方   剛


正しくは、「生き方」であるのでしょうが、この場合のそれは、「行方」とするのが正しいようです。
d0004250_1945378.jpg


「1号が創刊されたのは、いくつのときですか?」
「いまのきみとおないどしくらいかな」
「じゃあ、これが僕だとして、、、」
「これが、僕ということになるね」
とともだちが示した『薔薇窗』1号を見やりつつ、その手のなかには、『薔薇窗』18号。
その13年という歳月のどこで、こどもとおとながすれ違ったのか、悲しいことにわからない、、、
ことしも、開幕のベルは華やかに鳴ります。
d0004250_19579.jpg


ほんねんも、「ヴィオラ☆マニア」ならびに、「スミレノオト」をよろしくお願いします。

*画像、上、第一期(1〜4号)、中、第二期(5〜11号)、下、第三期(12〜16号)
[PR]
by viola-mania | 2009-01-01 10:59 | 雑感

蟲師。

翌日が休みでないかぎり、平日の深夜に起きていることはあまりないけれど、来週から月曜日の深夜だけは、起きていなければならないといった必要性を感じた、きのうの深夜、、、
そんなわけで、三年前の秋からその翌年の春まで、地上波にて放映された『蟲師』を、ようやくいまになって衛星波でみているオイラのアンテナって、ある意味、この物語の舞台である、「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった、電気のなかった頃のそれであり、よって、届くこともないそれが像を結んでいるのは、だから、蟲の報せによるものなのでしょう。
また、画面に映る風景も、日本の原風景を思わせるようなノスタルジックなものとなっていて、このあたりの事情が、アナログ仕様なオイラには、何とも心地よいのです。
それにしても、かたわらに置いた湯のみから立つ、湯気の音さえ聞こえてきそうな深夜。
「柔らかな角」とキャプションされた画面の向こう側は雪景色。
どうりで静かなわけです。
d0004250_0181711.jpg


さて、『蟲師 第三話 柔らかな角』のストーリーは、 


 雪深い村の村長白沢(しらさわ)の依頼で、村人の片耳が聞こえなくなるという奇病
 の調査に訪れたギンコ。ギンコの治療により村人達は救われるが、村長の孫の真火
 (まほ)は両耳が聞こえなくなり額に角が生えるという、さらに特異な病に冒されて
 いた。 そして、真火の母も同じ病で命を落としていた、、、


というもの。
d0004250_0183266.jpg


ふと、若山牧水の


 耳は耳目は目からだがばらばらに離れて虫をきいてをるものか


こんなうたのなかに、このストーリーのすべてが集約されているのではないかと思ったのは、きのうの深夜のことでした。
d0004250_0184876.jpg


*画像、上、ギンコ、中、蟲の名、下、真火。
[PR]
by viola-mania | 2008-12-28 00:22 | 雑感

海豚。

伊豆半島の最南端にある大根島展望台からヒリゾ海岸を臨もうと、その小さなパーキング・エリアに愛車を止め、このどこかイルカを思わす流線形のボディをあらためて眺めたとき、その前日、下田海中水族館で観た「イルカショー」に少なからず感化されている、我が視官を嬉しく思いました。
d0004250_0441295.jpg


「エンジンのおおきさによって、そのクルマの持つ特性を最大限に活用出来ることと、イルカの脳化指数って、なんだか似てるよね」
と倒した助手席のシートの上で、目を閉じている父に、訊くとはなしに訊いてみると、
「脳化指数って、なんだ!?」
との返答。
「ああ、体重に占める脳の割合のことなんだけど、きのう観たイルカはね、ヒトについで脳化指数が高いことが知られてるんだよ」
それに対する父の返答が、静かな寝息となって聞こえてきたとき、ここから臨む草の海が、その寝息によって凪(な)いだ気がして、おもてへ出たくなりました。
d0004250_0444266.jpg


「イルカがヒトに匹敵する知性を持てば、、、」
などと、草の海が南風にさざめく展望台までの階段を昇りつつ、その意識は、ヒトの知性とイルカの能力の響応を思い返していました。
「まるで、<イルカに乗った少年>ね!!」
とそのショーを観る客のひとりがいったとき、ウエット・スーツを着た少年とイルカとの信頼関係に、胸が熱くなりました。
ヒトはイルカの能力にたのみ、イルカはヒトの知性にまつ、、、
といったこの“響応”は、ショーの行われている海上でスパークし、その深い草色をした火花、否、水しぶきが、少年とイルカの上できらめくごとに起こる歓声をもって、その成果を証明しています。
「もしも、乗る背中がなかったら、、、」
そんな不安が、展望台からの階段を下りつつ、一瞬、こころに兆したけれど、イルカを思わす流線形のボディを持った愛車は、小さなパーキング・エリアで、両親を載せたまま、そこで“まつ”ていてくれました。
とさ。。。
d0004250_045031.jpg


*画像、旅のアルバム。
[PR]
by viola-mania | 2008-11-16 02:20 | 雑感

彼地。

 そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして、氷雪の上に飛躍し、大循環
 の風を従えて、北に旅する事もあれば、赤い花林の下を行く蟻と語ることも出来る。
 罪やかなしみでさえ、そこでは聖く、きれいに輝いている。
d0004250_7332562.jpg


と、ともだちに、宮沢賢治の文章を電話口で朗読したあと、
「<罪やかなしみでさえ、そこでは聖く、きれいに輝いている>、そんな場所が、この世に存在することを赦していた、賢治のおおきさに比べたら、僕の胸にひっかかっていることなんて、とてもちっぽけなことだと思う」
とその“胸にひっかかっていること”の詳細を吐露してみた。
「たとえば、愛するひとのために死ねる感情って、自分の命をそのひとに托すことだと思うんだよね」
というともだちの死生観に、
「うん、ふたりでひとりなわけだしね」
と何の疑いもなく応えた自分に、ふと、“罪やかなしみ”が“きれいに輝”く場所のあることが、救いのように思われました。
「死」を迎える状況は、さまざまにあるわけだけど、でも、それ自体は人間中心の生命観であって、「命」そのものの理解ではないよね。
だから、ともだちに、“罪やかなしみ”が“きれいに輝”く場所で結ばれた友情譚について触れてみた。
「でも、この場所は、きみ以外の誰にも教えてないし、教えたくないんだよね。だって、きみは大切なともだちだから」
と、その場所の在処をそっと教えた。。。
d0004250_7334392.jpg

[PR]
by viola-mania | 2008-11-09 07:36 | 雑感

馬肥。

天高く馬肥ゆる秋ですね。。。
そんなわけで、きょうは、駅までの山道を40分かけて歩いてみることに、、、
とはいえ、昼飯前。
“馬肥ゆる”どころか、消耗しそうな勢いですが、その道すがら里山の植物たちを、ケータイ・カメラに収めつつ歩いていたら、深まりゆく秋の季に、こころだけは、満腹といったところ。
d0004250_019784.jpg


そんなわけで、いつものストアへ行く前に、贔屓の古書肆へ立ち寄ってみることに、、、
半月ぶりの店内のワゴンには、これといった出物もなく、それでも、その装釘のみに惹かれた『江戸次第』(昭和6年刊)というすべて漢文による、ちんぷん漢文? な書物を300円で拾い、狭い店内の棚を一巡。
さて、お会計といったところで、ちょっとした珍書? を発見。
んでもって、それら二冊の書物を番台へ持っていったところで、きょうも見えないご主人の代わりに店番をされていた奥さんと、これも前回に引き続き地元談義に花を咲かせてしまいました。
d0004250_0251433.jpg


かれこれ小一時間ばかりを古書肆で費やし、いよいよ、減ってきた腹を擦りながらストアへ、、、
新米の出荷に気推された? かたちとなったオコメを、いつもの価格より500円安く買うことができ、ふと、小市民的な喜びが込み上げるも、これを土鍋で炊けば、そのおいしさは、新米に劣るものではない!! と、負け惜しんでみたりなんだり。
それにしても、ごはんがおいしい季節ですね。。。
d0004250_019362.jpg


*画像、里山の秋を歩く。
[PR]
by viola-mania | 2008-11-02 00:26 | 雑感

隣愛。

物事をそつなくこなすことが美徳とされる世の中で、ふと、“そつなくこなす”ことの意味を考えてみました。
物事を“そつなくこなす”ためには、それをこなすひとの周りに点在している“物事”に優先順位をつけ、その順番どおり、それをこなしてゆけば、世の中の美徳に適った行いをすることは、造作もないことでしょう。
でも、この“優先順位”が自分本意なものであったら、、、自分からしてみれば美徳であると感じられることも、世の中からしてみれば悪徳であると感じられるかもしれないね。
d0004250_0125410.jpg


そんなことを考えながら、そろそろ、我が家を覆い始めた、柴(しば)を枝切りバサミで、ザクザク刈っていたら、隣の家のご主人に声をかけられました。
「一気にやらなくても、どーせ、すぐに生えてくるんだから、ゆっくりやればいいよ」
といわれ、もともと、やぶ蚊に刺されることを覚悟した、苦手な柴刈りだけに、何だか気持ちが楽になりました。
「あしたは用事があるんで、、、」
といって断った役員からの出動要請も、仕事よりもまずは、柴刈りといった、“優先順位”に倣ったがため。
はたして、これは、自分本意な“優先順位”であるのでしょうか。
d0004250_013987.jpg


でも、親友のそれは少し違って、、、
「僕のこころを打ったのは、いつか、家に柴刈りに来て欲しいと頼んだときに、<僕じゃなきゃダメなの??>と聞いたきみに対して、<きみじゃなきゃダメなの!!>といった、僕の我がままを聞きいれてくれたきみが、実は、腰を患っていたということを、柴刈りに来てくれた当日に聞いて、このひとは、自分のことよりも、それを望む相手のことを優先させるひとなんだと思ったこと」
そういえば、隣の家のご主人も、ひと知れず、我が家の柴を刈ってくれていることに気づいたとき、親友の厚意とともに、これが隣人に対する愛なのだな、と感じました。
柔らかな秋の日を眺めつつ、ぼんやりと。。。
d0004250_0132488.jpg


*画像、小庭の秋。
[PR]
by viola-mania | 2008-10-05 00:17 | 雑感