カテゴリ:文学( 20 )

大船。

ユッキーこと三島由紀夫が、二十八歳で書き上げた長篇、『禁色 第二部 秘楽』(昭和28年)を読んでいたら、絶世の美青年としてこの物語に登場する南 悠一と、彼を傀儡(くぐつ)のごとく操る老作家、檜 俊輔とが、その年、横須賀線の車窓から見た「大船観音」を書いた、
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 電車は大船に着いた。二人は駅のむかうの山あひに、うつむいてゐる高い観音像の項(うなじ)
 が、煙つた緑の木々を抜きん出て、灰色の空に接してゐるのを見た。駅は閑散である。



こんな描写に、近くにいらっしゃいながら、一度も詣でたことのなかった大船観音寺へ、その観音さまを見に行きたくなりました。
ところで、観音像の竣工は、昭和35年ですが、その着工は、それを遡ること30年前。
工事が着手されたその年、昭和4年は、世界大恐慌のさなかにあり、そんな世相のなかで、観音像を建立するべく寄付金集めは困難を極めました。
そんなわけで、その五年後、観音像は未完成の状態で工事を中断、そのあとに起った戦争を眺め、敗戦したこの国の経済が持ち直し始めた、昭和30年まで、工事の再開を待たなければなりませんでした。
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さて、こんな事情を、ユッキーの書いた「大船観音」の描写に照らすと、悠一と俊輔、否、彼が見た観音さまは、白衣(びゃくえ)をまとった、いまのお姿のものではなく、未完成の状態で放置されていた「大船観音」ということになります。
そんな観音さまをひとわたり眺め、大船駅からバスに乗って鎌倉駅へ戻ると、この「大船」という駅が、ユッキーの描写どおり、疾うから“閑散であ”ったということがわかりました!!
とはいえ、市民にやさしい大船が、そんなところも含めて大好きです。
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*画像、大船観音はいいぞ!!
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by viola-mania | 2009-06-28 00:44 | 文学

歌殺。

 泰山木は私の最初の植物体験の一つであった。

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とは、奇しくもこの植物が、雄大瑰麗な花をひらきかつ鋭い芳香を漂わせる一時期に逝った、歌人、塚本邦雄のことばですが、この泰山木(たいさんぼく)が花ひらく午前中に我が家を訪ねて来た近所のともだちの顔もまた、ひらいたばかりの花のように瑞々しいものでした。
さて、ともだちから手渡された白い封筒のなかには、『現代短歌研究』の誌名を持つそれが三冊はいっていて、その最新号の表紙に刷られたもくじを見ると、ともだちが、この研究誌の主宰を務めていた、評論家、菱川善夫に捧げた批評文のタイトルが、巻頭に据えられていました。

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 「カリギュラの鏡——歌はだれを殺すのか」   小松 剛


カリギュラとは、アルベル・カミュの戯曲に登場する若き暴君の名ですが、そのカミュの戯曲「カリギュラ」の科白を、文頭と文末に置いた小松さんの文は、その初校を読み聞かせてもらったときの印象そのままに劇的であり、そのことは、「選別的な形でしか<殺し>はやってこない」という菱川のことばどおり、特別な状況、あるいは、状態のなかでこの文が書かれたことを示唆しています。
その状況とは、前衛短歌の開幕期からその評論活動を展開してきた菱川の死であり、状態とは、「歌人には決してなりたくない、歌人とはもう関わりたくない。歌人は死ぬほどつまらない」という小松さんの歌人に対する諦念とでしょう。


 人は、短歌を一首成すとき、多くのものを喪っていることを知るべきだろう。そしてその末に
 残るものがあるのか、とくと自分に問うべきだろう。一首を成すとき、人は、恐るべき力で短歌化
 され、あらゆるものとともに消え去る。この魔的な力に抗う術はない。ましてや伝統に紛れ込もう
 とする歌人に、なにを見るべきものがあるだろうか。短歌とはただ五七五七七すなわち三十一首の
 音楽にすぎず、くちずさむように歌えばよいと言うような歌人に、なにを聴くべきものが残るとい
 うのだろうか。



と小松さんが嘆くとき、塚本の「<歌人(うたびと)とわが名呼ばれむ>で、<われ歌人(うたびと)ではない」といったことばとともに、このひらいたばかりの泰山木が、その夕刻には淡いセピア色に変色し、とざすことなく花の寿命を終えるその過程を想います。


 泰山木雪白の花ふふみたり青年を棄てて何を愛する   邦雄
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*画像、上、ひらいたばかりの泰山木、中、「現代短歌研究」第八集、下、「カリギュラの鏡——歌はだれを殺すのか」初校。
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by viola-mania | 2009-05-31 01:08 | 文学

薔窗。

どこだったか地方にある生花店で見かけた数種類のバラのなかから、この植物の原種であるオールドローズのポット苗を三つ買ったのが、十年の歳月をかけて? 完成した薔薇窗づくりの発端でした。
誰かが玄関の呼び鈴を鳴らしたとき、その脇にある書斎の窓から顔を覗かせ、その誰かを迎えたいとの抱負があったから、、、
さて、ことしの薔薇垣は、隣の家がなくなり日照に恵まれたという好条件を引いても、ことさらの出来映えです。
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ところで、折口博士が、彼の壮年時代につけていた「零時日記」のなかに、


 庭の雪の上に、沢山の足痕が乱れて居る。犬・猫・鼠・鼬と一々に個性を持つた曲線を作つ
 て、あるいて居る。ひつそりと閉し勝ちな家にも、こんなに小さな獣どもが、集つて来て居るので
 あつた。



という一文があり、これを読むと個人誌『薔薇窗』に参集した、獣たちのことが想い浮びます。
とりわけ、この雑誌がきっかけで、その交流が深まった、歌人、結崎 剛さんも、彼の十九歳の夏には、まだ、ご自身いわく“小さな獣”であったものが、いつしか、ご近所さんとなり、“小さな獣”と一緒に我が家を訪ねてくるようになったのは、不思議な縁(えにし)というよりありません。
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そんな、結崎さんに、きのうは、紙袋いっぱいのオールドローズをもたせてあげました。


 薔薇窗の隅立つたる鼠哉

 *窓から侵入し、いつの間にか棲みついた鼠、一首誉められて薔薇乱す。


とは、結崎さんの返礼の一句とその自註です。
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*画像、上、ことさらの出来映え、中、ともだちと相棒のツー・ショット、下、薔薇窗完成♪
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by viola-mania | 2009-05-17 00:19 | 文学

薔薇。

我が家の玄関脇に植えたオールドローズの、一等はじめにひらいたそれをガラス鉢に浮かべて、その花が香りを漂わせているうちに、着手のライトノベルを書き上げてしまおうとの計画は、でも、ダストボックスのなかで花と散りました。
このたびのイベント(「第八回文学フリマ」)用に、櫂まことさんとつくった『プラトニカ 第二輯』は、完売(イベント持ち分)という喜ばしい結果を残しましたが、でも、そのことはこちらの意に反する? ことであり、画と文が互いにそっぽを向いたかたちとなった「輯」は、だから、失敗なのです。
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そんなわけで、その“失敗”を挽回するべく、イベントの前日を締め切りに進めていたのが、“着手のライトノベル”でした。
こうした誠意? を、つねに作品で見せようとしている我々は、互いが理解者である半面で、敵対者でもあるのです。
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「これ」
と櫂さんから手渡された紙袋には、湿らせた布と二輪のバラがはいっていて、その用途を訊ねたところ、
「店に飾ったらいいかな」
とのことでした。
ダストボックスのなかで花と散ったオールドローズに代わり、いまは、そのバラがへたれながらも強い香りを放っています。
このバラが散る前に、“着手のライトノベル”を仕上げ、その誠意を櫂さんに見せたいところでR
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*画像、上、店に飾ったバラ、中、「プラトニカ」部分、下、持ち帰ったバラ。
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by viola-mania | 2009-05-10 22:20 | 文学

憾言。

創作ノオトをつくる以外に、その詳細を書いているのは、このスミレノオトくらいなもんだけど、それら二つのノオトに書いていてさえ、整理することがままならない、このたびの作品「牧野博士の不思議な採集」は、どこか作者の想像を超えた場所へ行き着こうとしている憾(うら)みがあります。
何ゆえ、そのことを“憾(うら)み”がましく書くかというと、この作品を読んだ、ある作家のかたから、

 
 第三章の「ハタハタハタ」「あれから、幾年経つのだろう…」「サリサリ、…サリサリ」辺りに、
 折口信夫の「死者の書」と意識的に重ねようとしている感が伝わってきます。全体的な小生の印象
 では、構成などがややひねり過ぎで、話の展開を分かりにくくしているのではとの感を覚えます。


と折口信夫の『死者の書』を引き合いに出されるなど、まったく想定外な感想をもらったことによります。
ファンタジーはよく、わからないとも面白くないともいわれます。
もちろん、そのことはそれを読むひとにもよるのでしょうが、こころに向かって語ろうとする、この文学の一形態を「わからない」と思ったり、「面白くない」と思ったりするのは、それを読む側に、そうしたこころの準備がないからなのかもしれません。
そんなファンタジーには、地上現象の上では証明出来ない何かがあって、その現象の論理と道筋を超える何かがあるのです。
この“何か”とは、個々の読者が、そのときにわかる啓示的なことであり、よって、これを「わからない」と思ったり、「面白くない」と思ったりする読者の上には、この“啓示的なこと”が、たんに起らなかっただけなのでしょう。
そんな“憾(うら)み”がある作品「牧野博士の〜」は、冒頭にもあるように“二つのノオトに書いていてさえ、整理することがままならない”それであり、このことは、作者の自覚する、たとえば、物語に流れている現在、過去、未来、の時間を隔てる垣根、つまり、「行空き」を設けないことに起因しているのかもしれません。
とはいえ、この“「行空き」を設けないこと”は、作者の意図することであり、もっといえば、アインシュタインの『相対性理論』のうち、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」を引き合いに出して説明することの出来るものなのです。
つまり、「特殊相対性理論」=「ミンコフスキー空間」における「四次元」にそのことを照らせば、この次元では、時間も空間も一つに存在するものであって、過去に存在したものも、未来に存在するものも、この「四次元」世界の内部に存在して然るべきものであるということを、“「行空き」を設けないこと”のうちにあらわしたかったというわけです。
とそんなことを書いて、いったい、どれだけの読者がそのことを理解してくれるのだろうかと、つい、“憾(うら)み”ごとの一つもいいたくなってしまいます。。。
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*画像、お馴染みのショット。
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by viola-mania | 2009-03-29 10:38 | 文学

何色。

拙作、「牧野博士の不思議な採集」第一章の挿画、および、表紙は、「緑」でした。
そして、第二章・第三章の挿画、および、表紙は、「紫」。
そうなってくると、第四章・第五章の挿画、および、表紙の色は決まったも同然ですが、奇しくも、この色を導き出したのが、作中に出てくる、それぞれ三つの事物であったことに気づいたとき、我ながら、その見事な符合に、怖れおののきました。
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だって、これって、まさに、ノヴァーリスのいう、「物質が光になろうとする努力」じゃん!!
しかも、ゲーテは『色彩論』のなかで、


 色彩をつくり出すためには、光と闇、明と暗、あるいはもっと普遍的な公式を用いると、光と光な
 らざるものとが要求される。光のすぐそばにはわれわれが黄と呼ぶ色彩があらわれ、闇のすぐそば
 には青という言葉で表わされる色彩があらわれる。


といっているけれど、黄と青を均等に混合すると緑になり、それらの色がその濃度を強めると「 」と紫になります。
んでもって、この「 」と紫がさらにその濃度を強めると双方は赤になるんだなあ。
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つまり、これが、ゲーテの考える三原色というわけ。
しかも、この六つの色を結ぶと、そこには、光が生じるのです。
とはいえ、いつ、闇になるとも知れぬ、三原色でもあります。
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*画像、色彩環。
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by viola-mania | 2009-03-22 00:01 | 文学

沈黙。

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く


といった三行の詩聯で結ばれたこの詩、「ほそくてながい指のひと」を読んだとき、その作者である笹原玉子さんが敬愛しているという、ユルスナールの<最初に発表した小説>、『アレクシス あるいは空しい戦いについて』に、


 音楽は魂の宇宙だと人は言う。女友(とも)よ、それもありえないことで
 はない。しかしそれはただ、魂と肉体が不可分であること、鍵盤が音を
 含んでいるように、一方が他方を含んでいることを証すだけだ。和音の
 あとの沈黙は、普通の沈黙とはまったく質を異にする。それは注意深い
 沈黙だ。生きた沈黙だ。……


といった一節があったことを思い出し、同性愛の傾向を持つ主人公を、ユルスナール自身に重ねた、この自伝的な処女作(<最初に発表した小説>)の終わり近くに引いたアンダーラインの箇所を、いま一度読み返してみたくなりました。
笹原さんの作中、「虚無を許されてゐるたつたひとりのひと」とは、そのタイトルにある「ほそくてながい指」を持つひとであり、そのひとの性別を、貴方=男性であると類推してみたとき、そこに、あらわれるのは、やはり、「イエス・キリスト」をおいて、ほかに考えられないのです。
だから、“音楽を魂の宇宙”とするユルスナールのたとえは、「沈黙」の名を借りて、“そこから遠く及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く”、イエスの声とすることもできるでしょう。
このことが、ゲッセマネの園でのイエスの祈り、或いは、それと同質の、“注意深い沈黙”であり、“生きた沈黙”であることのことわけを証すものだとしたら、この詩、「ほそくてながい指のひと」は、そのひとに対するオマージュであるのかもしれませんね。


 そのかみのほそくてながい指のひとよ。貴方
 がさしのべた手を握りかへすと、わたしたち
 はいつも火傷をくりかへす。その、あまりの
 つめたさに

    †

 火傷を負はせるたびごとに、それでも貴方は
 歓喜の声をあげてゐたのではなかつたか。酷
 薄といふ名の
 もの言はぬ瞳の奥でひとしづくつたはるもの
 がなかつたか。いつくしみといふ名の

    †

 まづしい僧院の中庭で木枯を肩に積みあげな
 がら、わたしたちはさしだされる手を待つて
 ゐた

    †

 ほそくてながい指のひとが盲目の小鳥を放す。
 掌(てのひら)の焼土をあがなふかのやうに

  目を閉ぢるといふことは
          受け入れるといふこと

 僧院の中庭はそのために充分な広さと孤独を
 所有してゐた

    †

 おそらくは虚無を許されてゐたたつたひとり
 のひとよ。貴方の沈黙はいま、そこから遠く
 及ばざるものにも谷間の花にもしづかに届く

*笹原玉子「この焼跡の、ユメの、県(あがた)」、ミッドナイト・プレス刊
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by viola-mania | 2008-12-21 00:32 | 文学

並列。

鈴木創士訳、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』を、こんどの耽美文藝誌『薔薇窗』の誌上で、堀口大学の訳したそれと読み比べてみるべく、目を通していたら、


 少年—博士のように博学で勿忘草(わすれなぐさ)のようにみずみずしい、


という喩えがあり、その箇所を堀口訳にあたってみると、


 少年博士のように博学で、瑠璃草のように新鮮で、


となっていました。
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当然、堀口訳でしか読んだことがなかった、このジュネの創世記(ジュネーズ)に、鈴木の「少年」と「博士」を並列する「—」は、そのことに同感するこちらに、少なからず衝撃を与えました。
この喩えは、三島のユッキーが、稲垣足穂の人物像を想像するそれとよく似ていて、たとえば、ユッキーは、「稲垣さんを、いまだに、白い、洗濯屋から返ってきたてのカラーをした、小学校の上級生だと思いたいんですよね、どうしても。そういう少年がどこかにいて、とんでもないものを書いているというふうに思いたいんです。つまり美少年がとんでもない哲学体験を持っているという夢をもっているわけ」と、澁澤龍彦との対談のなかで語っていて、“「少年」と「博士」を並列する「—」”のニュアンスが、足穂の人物像を媒介として感じられました。
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とはいえ、それは、あくまで想像の産物に過ぎず、だから、この「少年」が持つ特質のみを抽出し、それを注ぐ器を現実に求めるとしたら、やはり、その対象は、社会の庇護下に置かれている(或いは、放置されている)、大学生ということになるのでしょう。
とりわけ、「院生」と呼ばれる彼等に、、、
そんなことを考えていた折り、この“とんでもない哲学体験を持っている”とおぼしき「院生」より、メエルが届きました。
『薔薇窗』の購読者であるという「少年—博士」は、19世紀末のドイツの詩人、シュテファン・ゲオルゲについて研究しているとのことでした。
「少年」と「博士」の邂逅を、いつか、『薔薇窗』誌上で、読んでみたいものです。
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*画像、上、鈴木創士訳「花のノートルダム」(2008)、中、少年ジュネ、下、堀口大学訳「花のノートルダム」(1953)。
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by viola-mania | 2008-12-14 00:22 | 文学

艱難。

弟の名は、巳浩(みひろ)といい、どこか香りのあるその名には、美術評論家という彼の生業(なりわい)を、花文字で飾るような情緒があった。
巳浩とともに、白い波が静かに漣(さざなみ)を返している、その三方を山に囲まれた湖を前にしたとき、彼の首に掛けた白いマフラーが、折りからの突風にあおられ、湖面に立つ漣にまぎれた。
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「やっぱり、僕の思ったとおり、きみは来ていた。僕は、画伯の作品を観に来たのではなく、きみに逢いに来たのだ、、、さあ、いまから、うぐいすの声を聞きにおもてへ出よう」
と若い歌詠みに腕を取られて、どこで啼いているのかもわからぬ、うぐいすの啼き音(ね)を聞きに、そのこころごと連れ去られたという、恋の逃避行について、巳浩は、嬉々として語った。
そんな弟のアバンチュールを、私は、少しの嫉妬と少しの嘲笑とをもって聞いていた。
「アニキも彼のことが好きなの?」
と巳浩から訊かれたとき、
「ああ、あの流麗な啼き音(ね)がな」
と曖昧に応えた私は、やはり、その枯れ草色したうぐいすの艱難(かんなん)のほうを、より愛していたのだった。
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*****

きのうは、こんな夢をみました。。。
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by viola-mania | 2008-12-07 00:11 | 文学

性春。

エロ漫画を描いているともだちに、“エロ”を描くことの意義を聞いてみると、
「仕事だから」
とにべもなくいわれ、確かに、生計を立ててゆくための“意義”であることに、間違いはないのでしょうが、結局、それ以上の答えを得ることは出来ませんでした。
ともだちからの答えを待つあいだ、そのことを自分自身にも聞いてみたところ、やっぱり答えは出なくて、ともだちとの電話を切ったあと、何の気なしにひらいた、堀切直人さんの『ファンタジーとフモール』に、「自己特権化は、ヒロイズムと選民意識を呼び出し、そのあげく当人を悲劇的なゴールへ向けて疾走させかねない」とあって、なるほど、ニンフォマニアに分裂型の人間が多いのは、それを支配するナルシシズムによるものだと、このことを理解しました。
そういえば、ゲーテは『ファウスト』のなかで、


 我輩の胸にはふたつの霊が棲んでいる。そのひとつは、愛欲の情と燃え、章魚(たこ)
 の足のそれのようにからみつく道具をもって下界にからみつき、他のひとつは塵の世
 を無理にも離れて、崇高な先人たちの霊の世界へ昇ってゆく


とファウストの口を借りて、分裂型の病症を暗黙のうちに語っているけれど、この“ふたつの霊”というのが、“ナルシシズム”の正体であることを、自己を特権化するような、この一文のなかに読むことは造作もないことでしょう。
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“ナルシシズム”が、青春に固有のそれであるなら、“ヒロイズムと選民意識”を扼殺することは、或いは、可能であるのかもしれません。
つまり、花田清輝の、「……我々には、もはや青春とは愚昧以外のなにものでもないのだ。……喝采を放棄し、尾羽打ち枯らさなくて、なにができるか。我々の欲するものは栄光ではなく、屈辱なのだ」というそのことを理解すれば、この春をひさぐ青二才は、“エロ”という名のナルシシズムの渦中へ、足をひっぱることを、ただちにやめることでしょう。


 到る処に、青春へのノスタルジーがある。……なぜ一気に年をとってしまうことがで
 きないのか

                         花田清輝「晩年の思想」より。
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*文中、堀切直人「ファンタジーとフモール」を、参考にしたことを附記します。
*画像、ハスの春秋。
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by viola-mania | 2008-10-19 00:00 | 文学