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寒朝。

きょうは、この冬一番の寒さだったとか、、、
だからというわけではないけれど、顔じゅうのふさげる穴のすべてを覆い、7時30分のバスへ乗り込むと、乗車口で取った整理券をカバンのポッケへ滑らせます。
はらり、、、
と隣のひとの足もとへ落ちて行った整理券を、他人事のように見送り、
「ま、いっか」
とひとりごつ。
ほどなく、こつこつと腰の辺りを小突かれ振り向くと、清泉小学校の制服を着た女の子。
「はて、こんな若い知り合いいたっけ!?」
と逡巡するいとまも得ぬまま、女の子から差し出された指先を見ると、いまさっき落とした整理券が、恭しく掲げられていました。
「ありがとう♪」
となぜか、すごく嬉しくなって、女の子と同じ目線でお礼をいってみました。
はらりと落ちた整理券を他人事のように見送るオトナの視線は、でも、コドモのそれとは違っていたようです。
女の子が少しの勇気を奮ってくれたおかげて、寒い朝は、温かい一日の始まりとなりました。
とさ。。。
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by viola-mania | 2008-01-27 22:59

淡友。

編輯子のMさんと、仕事の空き時間に、新潮社を少し行ったところにある、「キトスカフェ」という、Mさん贔屓の店へ案内してもらいました。
どこか、書斎を思わせる店内は、店主の趣味になる? さほど難しそうでもない書物に溢れていて、それらの閲覧も自由といった気儘さ。
そんな気儘な空間で手にした書物は、松山猛の『松山趣味』と『京都贅沢の発見』の二冊。
それにしても、Mさんとふたり、読書という無言の時間のうえをたゆたう、この空気は何だろう?
幼い頃には、こんな“空気”が、ともだちとのうえにも、たくさんゆたっていたような気がします。
相手によって会話を強いられたり、或いは、面白くもない話に興じなければならないことの悲劇? に、ふと、思いいたったとき、やっぱり、オイラの望む関係は、「淡きこと水のごとし」それなのだと痛感。
ふたたび、仕事場へ戻るまでの3時間のうちに、Mさんと交わした会話は二言三言。
こんな“淡きこと水のごと”く流れていった時間を、いまさらのように懐かしく感じるのでした。
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by viola-mania | 2008-01-20 19:37

神手。

ともだちから、夜半過ぎに届いていたメエルをひらいてみると、


 沖縄に出た神の手の雲だそうです。しあわせになって欲しい人、七人に送ると願いが
 叶うそうです。七人より多くなるのはいいそうです。しあわせになって欲しいので送
 ります。(^-^) というメールが回ってきたので送ります。ほんとかな?


こんな怪メエル? でした。
「オイラ、いつも幸せだけどね」
と可愛くないことを呟きつつも、


 わお!! 「神の手」を見れて、とっても幸せ。ありがとう♪


といった、可愛いメエルを送ってみました。
そんなわけで、七人に、このノオトを読んでもらえると、オイラも幸せになれるというわけです。
みなさんも、幸せになってね。。。

*画像、チェーン・メールらしい、神の手。
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by viola-mania | 2008-01-13 14:37

年計。

新しい年を迎え、そろそろ、一週間が経とうとしています。
にもかかわらず、「松の内を過ぎる頃には、」などと、まだ先であろうその日を見越して、何の気なしにつかってしまったのは、こちらの呑気によるもの。
だって、あしたになれば、“松の内”は過ぎてしまうのですから、、、
とはいえ、この“呑気”も捨てたものではなく、一年の計をいま頃になって挙げるとすれば、“呑気”ということばも、その計画のうちの一つに連なることでしょう。
ところで、孔子の『論語』に、「仁者不憂」という慣用句があるけれど、広いこころを持った仁者は、道理に従い天命に安んずるがゆえ、煩(わずら)わされることや、心配事が何もない、、、というもの。
広いこころを持った「仁者」ゆえ、その愛情の深さから、これを憎むものがないのも、また、畢竟といわねばなりません。
「情けに刃向かう刃なし」、、、といったところでしょうか。
とはいえ、いまの世のなかにおいて、「仁者」を実践するとなると、“道理に従い天命に安んずるがゆえ”の弊害を避けることは難しいかもしれないし、また、“その愛情の深さから”、逆に、憎まれてしまうこともあるやもしれません。
だから、“呑気”に過ごし、実践のときを待つのです。
たとえば、勝負の世界の金言に、「弱い者ほど早く結論を出したがる」ということばがあるけれど、形勢が不利であっても、「まだ、まだ」といえる“呑気”さは、つねに身につけておきたいものです。
だからといって、「仁者」を、“呑気”ないいひとと勘違いしてもらっては困ります。
ワイルドは、“いいひと”の本質を


 いい人は、いい人たらんといい人をしているばかりでなく、いい人である以外に生き
 る道がなくていい人をやっている


ときわめて辛辣なことばでいいあらわしています。
もちろん、“いいひと”の存在を否定することはできないけれど、“いいひと”だらけの社会なんて、単に、幼稚な社会に過ぎません。
そんなわけで、バーナード・ショーがいった、「四十歳以上の男はみな悪党だ」に倣い、四十路を目前に、ことしは、「悪党な仁者」を目指したいと思っています。

*画像、実践のときを過ぎても。
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by viola-mania | 2008-01-06 14:10

聖母。

ファウストの恋人マルガレーテは、メフィストフェレスによって地獄へ連れ去られようとしている、この憎くも愛しい男を救います。
そして、「贖罪の女」はファウストのために聖母に祈るのです。
グノーが、ゲーテの「ファウスト」第一部、「グレートヘン悲劇」を題材につくったオペラの『ファウスト』の、これが終幕であり、ゲーテにとっての神が思考の対象であったのに対し、グノーにとっての神は信仰の対象であったことがうかがえる一場でもあります。
グノーは、敬虔なクリスチャンでした。
なるほど、キリスト教の名において行われているこの聖母崇拝は、西洋の文化に顕著な痕跡を残していて、たとえば、カトリックの教会では、父なる神への祈りよりも聖母マリアへの祈りの方が遥かに優勢であるし、マリアの神的誕生が、カトリック教会の信条のうちに数え込まれてもいるのです。
とはいえ、聖書に登場するのは、「ヨセフの妻、マリア」という人物であって、これを神と讃えるくだりは見当たりません。
つまり、童貞(処女の意)聖母は、聖人ではなく想像、或いは、妄想の所産なのです。
ところで、「毋なる大地」ということばがありますが、このことばは、原始民族がその生存の努力から、地中に命を懐胎させている大地を、毋神や処女神に見立ててそう呼んでいるところに、どこか、処女にして毋であるマリアを彷佛とさせ、そのことから、マリアが民間信仰において、世界を支配する大いなる毋神として讃えられているのであれば、“聖母崇拝”もまた、しかりというわけです。
そんなわけで、童貞なる大地聖母が信じられている世界において、このような“処女にして毋”を想像することは、何の不思議もないことなのです。
つまり、「毋一般」の具現化としての毋神が、さらに「生むもの一般」の具現化としての大地聖母となり、「処女一般」の具現化としての処女神に結びつくのです。
そして、「人類を救うもの一般」の具現化としての救い主である毋が、「童貞聖母」として結晶するというわけです。
とはいえ、「童貞聖母」は、女という概念から処女性と母性とを抽出してつくった女の一類型ではなく、女以上のものであり、永遠という名のイデーへ導くものの象徴でもあるのです。
「ファウスト」の終幕に見る、「永遠に女性なるもの」とはまさにこのことをいうのかもしれません。
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by viola-mania | 2007-12-30 10:13

自愛。

コロンをワンプッシュ、その噴霧のなかを潜り抜けることが、外界への通過儀礼? となっていた日から、何か月が過ぎたのでしょう、、、
この数か月、他人のコロンはおろか、自分のコロンの香りすら、受けつけない体質? になってしまいました。
だから、特別なひとと逢うときは、小町にある「香司 鬼頭天馨堂」の沈香をベースにした、「雪ノ下」(地元の地名)という名の香(こう)を焚きしめ、その移り香を身にまとって出かけるようにしています。
コロンでさえも、直接吹きつけたことのないオイラにとっては、これが限界、、、
一等良いのは、海綿に擦りつけた石鹸の香が、まだ、からだから立ち上っている間(ま)に出かけること。
とはいえ、朝風呂にはいる習慣のないオイラにとっては、夢路へと向かうたしなみといったところがせいぜい。
で、このところの朝の習慣といえば、手に薬用クリームを塗ること。
何となく、自分を大切にしているような気になれるから。。。

*画像、薬用クリームとプライベート用の手帖。
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by viola-mania | 2007-12-23 10:47

湯浸。

湯に浸かりながら、物思いに耽ることは、子どもの頃から変わらぬ習慣なのですが、物思う内容も、少年、青年、そして、壮年となったいまでは、空想から理想を経て現実的なものに、、、
風呂にはいる間際に届いた、仕事仲間からのメエルに感化されたものか、ミルキー・グリーンに揺らめく、湯の美しさにひたっている暇(いとま)も得ずに、考えていたことといえば、明日の仕事の段取りについてでした。
さら湯の水面に近づけた指が、短く見えることを面白がったり、適わぬ恋に涙したその顔を湯舟にひたし、息が続く限界に挑戦してみたり、湯に浸かるひとときは、少年や青年だったオイラにとって、一日の余白ともいうべき、ムダなようでいて、大切な時間でもありました。
そんな、“大切な時間”に仕事のことを考えているだなんて、オイラも焼きが回ったものです。。。
なんて、、、
とはいえ、仕事を卑下してそういうのではなく、現実的なことどもを、“大切な時間”に持ち込みたくないと思うのは、夢想癖の強い? オヤヂにとって、せめてもの人情。
もちろん、髪を洗ったあと、トリートメントをして、風呂を出る間際に、必ず洗い流さなければならない、、、
といった実際的なこととは違った、“現実的”なことをいっているんだけどね。
明日は、シャツに黒眼鏡といった防具? をつけて、静かな戦線へと赴きます。
いざ、、、
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by viola-mania | 2007-12-16 08:39

戯画。

P.P.パゾリーニの『ソドムの市』を観るにあたって気になったのは、パゾリーニの父親のことでした。
パゾリーニの父親は、軍人であり、ムッソリーニ時代の全体主義に属していました。
そのことが、後年のパゾリーニにどんな影響を与えたかについては、その作品が雄弁に語っているといえるでしょう。
そんな、パゾリーニの遺作である『ソドムの市』を、1975年の公開当初、世の劇評家たちは、口を極めて、「スキャンダラスな映画」だと酷評し、その後、この映画は、商業ベースの配給網に載せられることなく、伝説と化してしまいました。
その謎に包まれた、パゾリーニ自身の死を、エンドロールとして、、、
ところで、『ソドムの市』は、「エンドロール」ではなく、「FINE」といった画面をもってその幕を閉じるのですが、その少し前に挿入された、親独義勇隊員の青年たちが、互(かたみ)に手を取り合って踊る、社交ダンスのシーンが、この映画を「ソドム」ならしめている、数々のシーンよりも、一等、印象的に感じられるのは、でも、偏向的な見方でしょうか。
というのも、茶の間桟敷きで気安く見れるようになったこの映画を、そのたとえに漏れず、DVDで観たのですが、それを観たひとたちの評判といえば、もっぱら、残虐なシーンに閉口したとか開口したとか、糞尿のシーンにいたっては、開いた口を思わず閉じてしまった、、、といった類いのものばかりで、てんで話にならないのです。
そんなシーンは、見せ掛けの戯画に過ぎず、パゾリーニは、たとえば、「残虐なシーン」では、ひとの肉体が破壊するまでのシークエンスを「商品化」の思想に照らし、「糞尿のシーン」では、廃棄物の産業的な流通を暗示させているのです。
で、「社交ダンスのシーン」の何が良いかといえば、片方の青年によって語られる婚約者の名前が、「マルゲリータ」であることからファウスト的救済(ファウストの恋人の名前は、マルガレーテ)を暗示させつつ、ド・サドの、悪によって創られたものは、悪自身をも凌ぐ力を有するという思想を想起させもするのに、この青年たちときたら、四名の「道楽者」によって処刑が執行されているさなか、館の一室で、ラジオからながれてくる軽音楽に合わせて、社交ダンスを踊っているのです。
そして、オープニングと同じ、この軽音楽によって幕が閉じられるといったすくいようのなさに、パゾリーニの、社会における諦観を見る思いがしました。


 バカめ そう簡単に死ねると思ったか
 永遠の終わりが来るまで 何千回となく殺してやる
 終わりが来ればだが


とパゾリーニ、或いは、サドは、四名の「道楽者」のうちのひとりに、そう語らせています。

*画像、「SARO' サロ或いはソドムの120日間」(原題)より。
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by viola-mania | 2007-12-09 21:32

幻館。

ヒトラーの命令により、解放されたムッソリーニは、その傀儡政権ともいえる、社会主義政権を樹立するべく、ローマのサロという町に、彼の支配下となる政府を置きました。
607日間に渡り存在したその国家は、その町の名に因み「サロ共和国」と呼ばれました。
正確には、1943年9月から1945年4月までの1年8か月、抵抗活動(パルチザン)により、ムッソリーニが斃(たお)れるまでの間、その幻のような国家は存在したのです。
ところで、その原題を「salo'」とする映画に、P.P.パゾリーニの『ソドムの市』がありますが、その原作は、いわずとも知れた、ド・サドの『ソドムの百二十日』であり、たぶん、パゾリーニは、期間限定で存在した館と国家に着目し、この映画の設定を、戦時下に存在した、“幻のような国家”に置き換えたのでしょう。
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ちなみに、サドの邦訳は、澁澤龍彦により「序文」のみ抄訳されていますが、そこまで読んで先が読めないもどかしさから、佐藤晴夫による完訳を買って読んだのは、かれこれ十年以上も前のこと。
ふと、何かの拍子に書架から取り出し、再読してみたところ、かつて、澁澤訳によるそれを読んだときの昂揚と、佐藤訳による「第一部」以降を読み継いだときの幻惑が、ふたたびよみがえるのを感じました。
で、ジュネについで、サドが好きな自らの思考は、やはり、破綻しているとしかいいようがなく、、、
とはいえ、自らが酒に酔っていては酒造が勤まらないように、サドもまた、、、と思うと、何だかサドの思考が、見え透いてはくるものの、読者に昂揚を与え、幻惑させるその筆致には、やはり、屈服せざるを得ません。
そのうち、P.P.パゾリーニの『ソドムの市』についても、何か書いてみたいと思います。
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by viola-mania | 2007-12-02 10:50

滑舌。

 マサチューセッツ州の旅客機100機柿食う客各100人がバスガス爆発で大爆発して隣
 のフランス人のフランスパンにフランス人が激突


こんな出題がありました。
うーん、普通に読むのも一苦労だというのに、これを早口でいえってか!?
すでに、“マサチューセッツ州”で躓いているオイラは、マイケル・ジャクソンを、


 マイケル・ジャくしょん


といって、笑われた男。
そんなわけで、日常生活ですら噛むオイラに、早口言葉なんて、夢のまた夢だよおー。
みんな、ゆっくり噛んでしゃべろーね。。。

*画像、オイラの考案による、「ガシガシくん」のつくり方、よくしゃべります!!
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by viola-mania | 2007-11-25 16:25