2007年 06月 24日 ( 1 )

隠喩。

我が家の周りは、土地柄、緑が多い。
まあ、山のなかに暮らしているので、“緑が多い”と感じるのは、当然のことなのですが、初夏ともなれば、目に鮮やかなこの緑、一見、詩情を誘うこの緑も、共生するとなれば、話は変わってきます。
野方図にはびこる緑ほど、手の焼けるものはありません。
緑で手を焼く。
だなんて、ホッケが聞いたら何と解釈することやら、、、
グスタフ・ルネ・ホッケといえば、種村季弘・矢川澄子の共訳による『迷宮としての世界』(昭和41年 美術出版社刊)の著者として知られていますが、この書物で、ホッケが述べていることこそ、“緑で手を焼く”ような奇想であり、翻っていうなら隠喩というわけです。


 マニエリスムは表現に遊んだばかりではなかった。そのように表現する目的をもって
 いた。まずもって、そこには神秘を暗示したいという衝動が渦巻いていた。むろん神
 秘を扱いたいというだけなら宗教者も宗教画家たちもオカルティストも、あるいはド
 イツロマン主義に代表されるような文芸者たちもみんな神秘を扱っているのだが、マ
 ニエリスムにとっての神秘はそうではなく、絵画的技法あるいは文芸的修辞そのもの
 が神秘の暗号であるような、いわばそれだけを見たり読んだりすれば決して神秘の賛
 美とは見えないようなもの、すなわちアンチ・クライマックスと見紛うばかりの神秘
 なのである。


と我らがセイゴオ先生(松岡正剛)も、ホッケによる『迷宮としての世界』の主題である、“マニエリスム”について、上記のような補足をされています。
ところで、“マニエリスム”とは、「マニエラ(maniera)」、つまり、手法、或いは、様式といった意をあわらすことばであり、セイゴオ先生のことばを借りていうなら「ある時代の割れ目に向かって決定的な精神の変動をおこうとした者たちが気がついた<方法の自覚>のこと」となるわけです。
セイゴオ先生のいう、“文芸的修辞そのものが神秘の暗号”であるとは、まさに、“マニエリスム”が文学に憑衣? した際、もっとも要所を得た表現であることは、“緑で手を焼く”の一語をとってみても、明らかといえるでしょう。
さて、“緑”に“手を焼”きながら、小庭の草取りをしていたら、門前の桐の木に、キリギリスがとまっていました。
これからの季節、それこそ、降るような虫の音を奏でる、コイツが張本人? というわけです。
“キリギリス”といえば、『ラ フォンテーヌの寓話』をひくまでもなく、浪費家の寓意。
足下を見れば、アリの行列、、、
我が家の小庭は、マニエリスムに溢れています。
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by viola-mania | 2007-06-24 14:07