2007年 06月 17日 ( 1 )

少年。

小高い丘にひっそりと佇んでいるその館は、前田利家の系譜にあたる、旧前田公爵家の別邸として、この地に建てられたということです。
いつか、両親とここを訪れたときにした匂いが、館へと向かう、小暗い並木道に足を踏みいれた途端、どこからともなく漂ってきました。
ネズミモチ。
という樹木の花の香が、その匂いの正体であることは、それ以前に嗅いだことのある、子供の頃の記憶を辿ってわかったことであり、この館において催されている、「澁澤龍彦 カマクラノ日々」でも、澁澤が辿ったであろう“子供の頃の記憶を”、自分のなかの記憶として、追体験することができました。


 あれは私が小学校の二年くらいだったろうか、何でも日のよく当った、休み時間の校
 庭だったようにおぼえている。私は遊び仲間から離れて、一人ぼんやりと花壇の縁の
 石に腰をおろしていた。ふと顔をあげると、私の前に、当時の担任の教師だった女の
 先生が立っていた。先生は神秘的な微笑を浮かべると、私の額に指を一本押し当て
 て、いやにしみじみした口調で、「あんたは疳の強い子だからねえ」とつぶやいた、
 「今度、先生が虫封じをしてあげましょうね。それはよく利くのよ。ここんところに
 護符(先生はゴフウと発音した)を貼っておくとね、悪い虫がどんどんどんどん出てく
 るの。虫がぜんぶ出てしまったら、あんたは素直ないい子になるわ」
 虫封じとは何のことか、護符とは何のことか、私にはさっぱり分からなかったが、私
 はこの女の先生から、額に虫を追い出すための孔をあける、へんな外科手術のような
 ものを受けている場面を頭のなかに思い描いて、そのとき、戦慄的と言ってもよいよ
 うな甘美な感覚を味わっていた。
 先生の指の押し当てられた自分の額から、羽蟻のような透き通った小さな虫が、わら
 わらと群れをなして、いっせいに飛び立つシーンをも私は頭のなかに空想した。小さ
 な虫は日の光にきらめきながら、煙のように空気中に拡散してゆくのである。


「虫」と題されたこのエッセーがはいっている『玩具草紙』を傍らに、澁澤の直筆になる原稿(青ペンで記された推敲も興味深く)を、床に立てひざをついて眺めていたとき、そういえば、いつか両親とここを訪れたとき、あの並木の下の歩道で、蟻の行列を見たのだったっけ、、、とそんなことを、その視線の高さから思い出しつつ、このエッセーの一部を読みました。
そんな、小さなものの営みを愛する少年の眼を、日常に鈍磨されたその眼の輝きを、シブサワ少年は、取り戻させてくれました。

*画像、鎌倉文学館、エントランスにて。
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by viola-mania | 2007-06-17 11:36