立止。

仕事帰りに立ち寄った古書店の店先で、『朝日新聞の用語の手びき』を見かけました。
そのこぶりな判型に気持ちが揺らぐも、買ったところで、20数年前の用語辞典など、使えるべくもありません。
それに、財布から小銭を出すのも、少し億劫。
とはいえ、100円ならば悪くない買い物だし、この手の辞典を集めている、編輯子Mさんとの話の種にもなろうというもの。
そんなわけで、神田教会の前で立ち止まると、いま来た100メートルあまりの道を引き返し、その用語辞典を買いに戻りました。
d0004250_9402953.jpg



 われわれにとって確実性の根拠になるのが経験であるとすれば、それは勿論過去の経
 験である。
 そしてそれは単なる私の経験といったものではなく、私の知識の源泉である他人の経
 験なのだ。


この薄くなった金文字を、指先でなぞっていたら、ウィトゲンシュタインのこんな一文が思い出されました。
ウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』のなかで、我々が何かを「知る」という過程は、「信じる」と同義であるといっています。
つまり、「知る」ことは「信じる」こと抜きには成立しないし、その反対もまた、しかりであると、、、
d0004250_9404553.jpg



 ひとは言うかもしれぬ。われわれが他人を信用するようにさせるのも、やはり経験で
 はないか、と。しかしどんな経験が私に、解剖学や生理学の教科書に嘘が書いていな
 いと信じさせるのか。もっとも、この信頼もまた私自身の経験によって支えられてい
 る、ということは正しいのだが。


いまは使えなくとも、かつてそれを使っていたひとの経験を支えていた、この用語辞典を手に取り、「知る」ことは、“私の知識の源泉である他人の経験”を「信じる」ことなのかもしれない、、、
などと、立ち止まって考えてみます。
d0004250_941064.jpg


*画像、上、如月を見下ろす、中、薄くなった金文字に立ち止まる、下、如月を見上げる。
[PR]
by viola-mania | 2009-02-01 09:45 | 雑感


<< 隣家。 地底。 >>