「四角四面」ということばは、たとえ、それが釣り合いのとれた形状のものであっても、あまり、よいたとえにはつかわれません。
たとえば、それが、「四角四面」の箱であったとして、そのなかに、人為的な何かがはいってでもしたら、もうそれは、嫌味以外の何ものでもなく、箱が箱であるべく形状を失ってしまったも同然といえるでしょう。 ところで、『稲垣足穂の世界 タルホスコープ』(平凡社刊)の筆頭に置かれた、種村季弘の一文のタイトルは「箱」となっていて、そのなかで、種村は、“箱が箱であるべく形状”について、 無限入れ子構造のどこかに、中身の「実物」が入り込んできたらおしまいである。重 力の干渉が生じる。重力に拘束されて地上に固着しがちになる。一旦そうなってしま えば、中身=実物であろうとして、箱になりたがらなくなる。からっぽの、なにかを いれるべく待機している、極薄世界=容器であることをやめてしまう。大人になり、 それ自体の価値に重厚に自足している実物という、分かりきったものでしかなくなっ てしまう。 といい、「箱」が「箱」以外の何かに変容してしまうことを危惧しています。 「世のなかには、三つの完璧なかたちがある。それは、船体、ヴァイオリン、そして少年のからだである」といったのは誰でしたか、、、 この“三つの完璧なかたち”の用途は、いずれも「容器」であって、船体はひとを、ヴァイオリンは音を、そして、少年のからだは得体のしれない何かをいれる、「箱」といっていいでしょう。 そして、種村は、この“得体のしれない何か”がはいった少年のからだを、「箱のなかに箱しか容れない箱」とし、少年の「安物的にぺらぺらした印象はそこからくる」としています。 つまり、少年愛は、“なにかをいれるべく待機している”箱たちのそれを指していうことばでもあるのです。
by viola-mania
| 2008-03-30 11:42
| 文学
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いい匂いのするペエジ
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