春の野に菫つみにと来(こ)し吾ぞ野をなつかしみ一夜(ひとよ)宿にける
万葉集、巻第八にはいっている、山部赤人のうたを、歌人、齋藤茂吉は、「<すみれ摘む>考」(『童馬山房夜話 第三』)のなかで、その「菫つむ」という所作を、可憐な花を愛するという解釈ではなく、食用として摘んだという解釈の傍証として、『和名鈔』という文献を用いてこのことを説明しています。 何とも味気ない解釈ではありますが、「花」を食用にするといった、ある意味、詩的なその行為から、「不可解な食欲の形而上学」を推進した、少年皇帝の、ある日の酒盃の挿話が思い出されました。 ある若い解放奴隷が、食後にファレルノの酒を注いで差し出すと、皇帝は口許に陰険 な笑みを泛かべて、「その酒盃に千匹の金蠅を集めてくれ。金蠅は糞にとまる虫であ るから、帝王の食餌たるにふさわしい」と言う。 わけです。 さて、この少年皇帝、ヘリオガバルスを想うとき、彼の鹿革のサンダルの下には、愛と性の花(イオネ)、つまり菫がひらきながらにして、踏みしだかれているといった情景が浮ぶとともに、その兇暴な企みを秘めた、美しい横顔が浮びます。 アントナン・アルトーの『ヘリオガバルス または載冠せるアナーキスト』や澁澤龍彦の「陽物神譚」に、この少年皇帝の凶状は詳しく書かれていますが、アルトーは、 我々を事物から解脱させてくれるもの、我々を<神>の単一性へと導いてくれるもの は、同意を経た分離の意識である。人はまず意識によって、そして後に愛の力によっ て愛を手に入れるのである。 と意志なき愛は成立しないとこれを説明していて、“分離の意識”という箇所に、ジャン・ジュネの、「愛とは唯一のものの分離の意識、引き離されることの意識であり、あなたのあなた自身があなたを眺める意識なのである」という、これも愛についての傍証を見い出しました。 愛と性の花(イオネ)、つまり菫が、ヘリオガバルスの足下にはびこるのと同じように、たえず、思索の下草として、思考という名の野辺には、この花がひらいているのです。 夏菫少年の神髯をもつ 永島靖子
by viola-mania
| 2007-04-29 11:20
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いい匂いのするペエジ
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